斜陽(後)/太宰治

前回に引き続き「斜陽」から「かず子の道徳革命」というお題で語ってみる。この姉の生き様は、弟ほど簡単には書けない。設定としては、出戻り。一度流産して離婚した29歳。「恋も知らなかった。愛、さえ、わからなかった」とある。30歳を間近に控えた女性ってどんなんだろう? 作中では「30。女には、29までは乙女の匂いが残っている。しかし、30の女のからだには、もう、どこにも、乙女の匂いがない」という、女性にとってはシビアな一節がある。当時と今とでは時代が違うので、この感覚はあくまでも「参考程度」なんだろうけど。ただ、かず子がそうした「微妙な年齢」に設定されている理由は、確かに太宰の中に計算されていたと思う。


「チエホフの妻への手紙に、子供を生んでおくれ、私たちの子供を生んでおくれ、って書いてございましたわね。ニイチェだかのエッセイの中にも、子供を生ませたいと思う女、という言葉がございましたわ。私、子供がほしいのです。幸福なんて、そんなものは、どうだっていいのですの」

愛しい人の子供を生んで育てるということ。「どのように道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさっさと走り寄る」女性。次のような一節も興味深い。

破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。破壊して、建て直して、完成しようという夢。そうして、いったん破壊すれば、永遠に完成の日が来ないかも知れぬのに。それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起こさなければならぬのだ。

かず子の基本的な姿勢は、上記のようなものだ。母の死後、かず子は敢然と立ち上がる。「戦闘、開始」この言葉が二回出てくる。「恋のために、その悲しさのために、身と霊魂をゲヘナにて滅し得る者、ああ、私は自分こそ、それだと言い張りたいのだ」ゲヘナとは聖書の中で出てくる「悪臭のするゴミ焼却場→地獄の象徴」のこと。どれだけの覚悟があるか、というのはよく分かる。「蛇のように慧く(さとく)、鴿(はと)のように素直なれ」という聖書の一節もよい。

こうしてデカダン生活を続ける流行作家、上原の自宅へ押しかける。上原本人は不在で、奥さんとの対面。そのへんの「身も削られるほどのわびしさ」の描写がよい。そこでまた「戦闘、開始」と自身に気合いを入れ直す。以下、紆余曲折あり「恋の成就」はなされるわけだけど、太宰はここで女性のうつろい易い微妙な心理描写を、しかと施している。最後にかず子曰く「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞こえて来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ」と。よきかな~

総括。か弱い乙女から大人の女性への脱皮。そこには、ある種の革命が必要である。自分の運命の責任を一身に背負って、独りで歩いて行く姿。そのとき必要とされる「勇気」は、なんと気高いものだろう。かず子の行動は、そうした「女性がいつか通過せざるを得ない革命」を象徴しているように思う。

私生児と、その母。けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。(中略)革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要のようでございます。

戦後間もない時代に、こうした「強い女性への変貌」を描いた太宰は、凄いなと思う。かず子の生き方は、一種の破滅と同時に再生である。いちばん美しいのは犠牲者なんだと、心から思うのです。

以上「斜陽」の感想を二回にわたり記しました。