「斜陽」(太宰治作)を再読した。本作は、高校生の時に一度読んでいる。例の夏休みの宿題→読書感想文を書くため。当時の本は何故かまだ手元に、しっかり日焼けして残っている。10代の当時と40代の現在の視点を比べるのも悪くないかなと、この古い本を紐解いてみた。
本作の主要な登場人物は四人。「最後の貴婦人」たる母、「古い道徳とどこまでも争う」姉、貴族の血に反抗しながらも宿命的な死を選ぶ弟、そしてデカダン生活を続ける流行作家。私の青春期に一番胸に刺さったのは、弟の直治。主人公は姉のかず子なんだけど、あの頃は直治の「心の痛み」というようなものが、私の青春の波長と同期して、なんか心が震えた。今回読んでみて、やはりその直治への傾倒はやや薄らいで、かず子の目を見張る成長に心が動いた。以下のふたつの軸で語ってみたい。
#1 直治の心痛
#2 かず子の道徳革命
まず#1から。直治の心の痛みを一番表現するのは「夕顔日記」という、彼が麻薬中毒で苦しんでいた頃の手記である。以下に一部を抜粋する。
デカダン? しかし、こうでもしなけりゃ生きておれないんだよ。そんな事を言って、僕を非難する人よりは、死ね!と言ってくれる人の方がありがたい。さっぱりする。けれども人は、めったに、死ね!とは言わないものだ。ケチくさく、用心深い偽善者どもよ。 正義? いわゆる階級闘争の本質は、そんなところにありはせぬ。人道? 冗談じゃない。僕は知っているよ。自分たちの幸福のために、相手を倒す事だ。殺す事だ。死ね!という宣告でなかったら、何だ。ごまかしちゃいけねえ。
上記四人とも、もちろん太宰の分身なのだが、直治はその中でも一番「純粋で弱い善の性質」を持ったキャラだ。退廃的な生活を続ける彼だけど、その根っこは「少しの悪も許せない潔癖性」だろうと思う。貴族という自分の避けられない血を、とことん憎んだ。民衆の中に溶け込もうと、麻薬中毒になり、下品になり、強暴になろうとした。そうして民衆の「たくましさ」に対抗しようとしたのだ。要するに自己否定。しかし自己否定の極地でもがいても、民衆には「悪意に満ちたクソていねいの傍聴席」を与えられるだけ。さりとて元の貴族の上流サロンの鼻持ちならないお上品さにはゲロが出る。帰属する場所がなくなり、どんどん荒んでいった。
10代のとき、何故この直治に惹き付けられたか、今こうして書いていて謎が解けた。あの頃、やはりこの直治の「自己否定をも厭わぬ純粋さ」に惹かれたんだな。当時本を読むという習慣が、ほとんどなかった。だから結構、本作も四苦八苦して読んでいたんだけど、あの「夕顔日記」の部分だけは、衝撃的だった。太宰の心の傷が直截的に叩き付けられているようで、心が震えた。すっと心の中に入ってきたというか。
あの頃とは月とスッポンくらいのリテラシーを持った現在、直治のキャラをどう位置づけるか。やはり「青臭い」という感想はある。直治は自身を「生活力が弱くて欠陥のある草」と評しているが、やはり客観的に考えて、どこかに「欠陥」はあると思う。悪を許せなさすぎるのも罪だ。広い意味の「病気」とも言える。
でも、やはり最後の遺書。読む者に肉迫するこの真剣さ、切なさは、40代になった今も感動せずにはいられない。「人間は、みな、同じものだ」・・このフレーズに対する実直で必死なプロテストは、凄いと思う。直治はこの何気ないフレーズに込められた「悪」を徹底的に糾弾する。
なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドもなく、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。民主主義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。ただ、酒場の牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」 なぜ、同じだというのか。優れている、と言えないのか。奴隷根性の復讐。
でも結局、直治がやっていたことも「民衆への同化」に他ならず、この問題意識自体が、彼を苦しめたのではないか。とことんやる、自己破壊。周囲の人間はたまらんな。
だからこそ、最後の直治の「秘められた恋の告白」は哀しい。胸が熱くなる。かず子の最後の手紙で「一矢報いる」わけだけど、その辺はよくできている。「いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です」かず子の弟を想いやる言葉。祈りに似た、この姉のフレーズで本作は締めくくられている。40代になった今も、目頭が熱くなったのは言うまでもない。次回は、#2の「かず子の道徳革命」で語ります。