夕凪の街 桜の国/佐々部清監督

「夕凪の街 桜の国」(佐々部清監督)を観た。ダイゴの通う高校で映画の上映会があるというので、夫婦で出かけた。その時の映画がこれ。ヒロシマ原爆に関する映画という情報は持っていたが、私は端から全然期待してなかった。むしろ、ダイゴの通う学校の雰囲気とかそういうのを知りたかったのだ。映画が始まると、まず「文部省特選」などの堅い文言。心の片隅で「約二時間の辛抱」という言葉が去来した。・・しかしこの映画のラストシーンで、私はうかつにも涙が出てしまったのだ。Blogに書くなんて夢にも思わなかったけど、何故あれほど心を動かされたのか自分なりに整理したいので、今回文章化してみる。次のふたつの軸で語る。

#1 映像の組み立ての上手さ
#2 「戦後」と「現代」を繋ぐもの

まず本題に入る前に、予告編をご覧下さい。


では#1から語ります。この作品は二部構成で、前編の「夕凪の街」は、昭和33年の広島のまさに戦後を描いている。それに比し後編の「桜の国」は、平成19年の現代の中に、昭和33年、47年、平成2年のみっつの時相を巧みに織り込みながら作り上げられている。こうして各時代を行ったり来たりすることにより、物語としての重層性が生まれているように感じる。もちろん、基本は「夕凪の街」が戦後、「桜の国」が現代。「桜の国」で現代を何気なく描く中に、過去の映像が挿入され、観る者に何かしら考えさせる。

まるちょう的にそれは何かと考えると、ひとつはまさに原爆の傷跡。これは上記の各時代に渡り潜在的に生き続け、人々を苦しめる。ふたつめは、現代を綿々と紡ぎ上げてきた人と人の絆。その絆の中に、微妙に「原爆の傷跡」が隠され生きている。したがって、こう言えるのではないか。「現代」と「戦後」という区別は無意味である、と。現代という一見平和な時代に、そうした「戦後」は潜んでいると。

監督の巧妙な語り口により、「桜の国」は違和感なく現代の話になっている。今の若者が観ても、ちゃんと同調できて飽きさせない内容。だからこそ、何回にもわたる「戦後」の挿入が、観る者にある違和感を感じさせ、考えさせる。「原爆の話は暗い昔の話」という先入観を取っ払ってくれる。無理なく問題意識を芽生えさせるというか。これって、とても優れている点だと思うんだけど。

次に#2。ある意味、平成20年の現在は既に「戦後」ではない。どちらかというと「平和ボケ」の様相が強い。私が中学の修学旅行で広島を訪れた時も、正直言ってあまりピンとこなかった。どうなんだろう? 人の心の痛みとか苦しみなんて、年齢を重ねていろんな苦しいことや悲しいことを経験して、初めて分かってくることじゃないんだろうか? 少なくともまるちょうは、中学時代よりも今の方が、ヒロシマ原爆の苦しみや痛みが理解できるような気がする。本作で描かれるのは、原爆そのものによる痛みというよりは、やや間接的な「絆にすり込まれた痛みや苦悩」だろう。そういうのは、40代の今ならかなり理解できる。

作中、戦後と現代を繋ぐ象徴的なグッズとして、髪留めが使用されている。皆実→フジミ→京花→七波へと引き継がれる、この髪留めはずばり「祈り」である。繰り返しになるが、ある意味で平成20年は既に「戦後」ではない。でもそれを無条件に肯定した瞬間に、何か大切なものが置いてきぼりになる気がする。髪留めは、戦争を生きた人々の痛みや苦しみ、悲しみを忘れないで、という祈りである。安易に「現代」と「戦後」を区別することを是としない、連綿と繋がる意志なんだろうと思う。

本作を観て、佐々部監督の力量を知る。いつか代表作「半落ち」を観てみたいと思った。以上「夕凪の街 桜の国」について感想を記しました。