「カンガルー日和」(村上春樹作)を再読した。村上さんの短編って、先入観として「長編ほど得るものはない」という印象だった。だから、あまり期待してなかったんだけど・・ 読後感としては「悪くないやん」。重い長編を読んだ後なんかに、一服の清涼剤として利用する価値は、十分にあると思った。17の短編が収録されているが、まるちょうお気に入りの5編をピックアップして語ってみる。
まず「1963/1982のイパネマ娘」
これは言うまでもなく「The Girl From Ipanema」(Getz/Gilberto作)をモチーフにした一編である。まるちょうは、これを読んで思わずアマゾンでCDをゲットしてしまった。ボサノバ、よいね~♪ あとは穏やかな陽射しと美味しいパスタがあれば、言うことないね。この楽曲の中のイパネマ娘は、形而上的な熱い砂浜を音もなく歩き続ける。まったく老けることを知らない。彼女は永遠に18で、クールで優しい女の子だ。・・名曲とは、彼女のようなものである。やれやれ。
次に「4月のある晴れた朝に
100パーセントの女の子に出会うことについて」
いつも思うけど、長ったらしい題名だ。村上さんは、そうした時の処方箋として「昔々」で始まって「悲しい話だと思いませんか」で終わる科白を提案している。文庫本でおよそ3頁にわたる長科白である。やれやれ。
でも、その中で村上さんが言わんとすることはわかる。10代の100%と30代の100%は違うということ。いろんな経験が「ピッタリ」という感覚を複合的なものに変えていく。それって、ある意味では「悲しい話」なのかもしれないですね(笑)。ちなみに実写版では、100%の女の子を室井滋が演じている。微妙?(笑)
次に「鏡」
村上さんには珍しい(のかな?)、怖い話です。これ、かなり怖いよ。ネタバレになるから、あまり書かないけど。この短編集の中では異色じゃないかな? 夏の夜中にこういうの読むと、結構それらしい雰囲気が出るかもしれない。
次に「バート・バカラックはお好き?」
これは、要するに「据え膳を食うべきか?」という問題に関する一編である。22歳の「僕」は、結局食わない。32歳の彼女の自宅で、美味しいハンバーグ・ステーキを食べて、お喋りして、そして帰る。ただそれだけのことだ。「据え膳」というのは、とても微妙な存在である。そして、一般論的な「正解」はありえない。なぜなら「据え膳」は取りも直さず、人間関係を凝縮した代物だから。まるちょうは既婚なので、食いません。しかし、この「僕」は未婚の若者である。彼女に、ほのかな好感も持っている。しかし、一線を越えさせない「何か」があるんだね。「歳をとってもわからないことはいっぱいある」・・その通りですね、村上さん。
最後に「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」
村上さんが貧乏時代に奥様と猫と一緒に住んでいた、くさび型の賃貸住宅の話。両脇に鉄道が通っていて、居住性は最悪。友人が「本当にこんなところに人が住むんだなぁ」と感心した物件である。でも村上さんは、その貧乏な時代を否定はしていない。春は素敵な季節だったとある。「僕たちは若くて、結婚したばかりで、太陽の光はただだった」。愛と希望があれば、貧乏はそんなに怖くないのかもしれない。村上さんご夫婦の原点を垣間見れる一編である。
以上「カンガルー日和」について語ってみました。
イパネマはリオの海岸だから
『穏やかな陽射しと美味しいパスタ』と言うよりは
『強烈な陽射しと熱いフェイジョアーダ』だな。
イパネマ、6回生の時に行ったけど雨降ってて女の子歩いてなかったな。(哀)
コメントありがとう☆彡
そうか、イパネマ海岸ってそういうイメージなんだ。
いつも夫婦でランチするイタめし屋さんに、
BGMとしてボサノバがかかっているので、
勝手にパスタとリンクさせてしまった。(>_<)
ボサノバって、ブラジルの音楽なんだね。なるほど。
ご指摘、ありがとうございます。m(_ _)m
雨降ってたのか・・なんかもったいない(苦笑)。