ツァラトゥストラはこう言った(前編)/ニーチェ

「ツァラトゥストラはこう言った」(ニーチェ作)を読んだ。2月から読み始めて、三度にわたる休息を経て、11月にようやく読了。こうした難解で高尚な本も、年に一冊は挑戦していきたいと思っている。本作はこれからの人生の中で、たぶんあと二回は通読すると予感している。

さて、本作の感想みたいなものを書こうとするわけだけど、Blogには絶望的になじまない題材です。Blogに書くこと自体、ニーチェ先生に叱られそうだ(苦笑)。それほど深遠な読み物だから。ただ、2006年に本書を通読できたという印として、ある意味割り切って書いてみたい。本作の主眼となる思想・・「超人」と「永遠回帰」のふたつ。このふたつのポイントに絞り、二回に分けてまるちょうなりに記したい。


今回は「超人」の思想に関して。

人間とは、動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱なのだ、・・深淵のうえにかかる綱なのだ。渡るのも危険であり、途中にあるのも危険であり、ふりかえるのも危険であり、身震いして足をとめるのも危険である。

生きるとは「一本のロープの上を歩いている」イメージであるという表現。これ、すごく共感できるんだな。いったんロープの上に乗っかってしまうと、それ自体が危険。そして、前に進むことでしか安定を得ることができない。ふりかえったり、足をとめると、途端に不安定になる。自分の下には深い地獄の谷が待っている。

ここで言う「前進」とは、自己克服のこと。現在の自分を乗り越えていくことによってしか、人間は前に進むことができない。人間は克服さるべきものである・・克服するとは、破滅することである。対象において滅ぶことが、人間にとっての充実であるということ。

破滅・・つまり、超人の視線は基本的に下向きである。視線の向こうには「大地」がある。間違っても天は見上げない。「大地に忠実であること」が大切。自分の「大地」のために喜んで滅んでいくもの、それが超人である。

自分の大地とは何か? それをどう考えるかで、人生の内容は変わってくる。まるちょうの大地は、紛れもなく妻と息子です。これを軽視するところに幸福は訪れない。天を見上げて溜息ばかりついている人は、結局自己を克服する、つまりロープの上を歩いていくことはできないのです。妻と息子のためなら、なんぼでも滅びるつもりです。そうでなければ、自分ではないと思う。

最後に、超人となる過程を具体的な比喩で表している部分を紹介して終わる。ちょっと長い引用だけど、とても好きな部分なので。

一人の若い牧人がのたうちまわり、息をつまらせ、痙攣をおこし、顔をゆがめて苦しんでいるのを、わたしは見た。その口からは一匹の黒くて重たい蛇が垂れ下がっていた。これほどの嫌悪の情と蒼白の恐怖が、人間の顔にあらわれたのを、わたしは見たことがなかった。牧人はおそらく眠っていたのだ。そこへ蛇が来て、喉にはいこみ・・しかと噛みついたのだ。わたしの手は蛇をつかんで、思いきり引きに引いた。・・その甲斐はなかった!(中略) わたしはわれを忘れてそのとき絶叫した、「噛むんだ!噛むんだ!頭を噛み切るんだ!噛むんだ!」・・わたしはそう絶叫した。(中略) ・・牧人は、わたしの絶叫のとおりに噛んだ。力強く噛んだ! かれは蛇の頭を遠くへ吐きだした。・・そして飛びおきた。・・もはや牧人ではなかった。もはや人間ではなかった、・・一人の変容した者、光につつまれた者であった。そして哄笑した!

このくだりを電車の中で読んでいて、思わず身震いしたのは言うまでもない。いつかまるちょうの喉にも「黒くて重たい蛇」が入り込むことがあるだろう。その時は、鬼の形相で噛み切ってやるつもりです。それこそが人生の意義だと思う。以上、かなり乱暴な書き方ですが、「超人」の思想についてまるちょう的に記してみました。あしからず(笑)。

次回は「永遠回帰」について語ります。