ツァラトゥストラはこう言った(後編)/ニーチェ

「ツァラトゥストラはこう言った」後編です。今回は、第二の思想「永遠回帰」について。まずはちょっと長い引用から。

門があり、その下を道が走っている。過去にさかのぼる永遠の道、未来に向かう永遠の道、どちらも無限の時間であるからには、・・そして緊密な因果関係のもとにあるからには、およそ起こりえた一切、およそ起こりうるであろう一切がそこにあるはずである。この相反する二つの道が「瞬間」(現在)と呼ばれる門の下で相会している。一切が過去にすでに生起した、あるいは未来に生起するものとすれば、そしてすべてが固く結びつけられた経過をたどるものとすれば、一切は回帰するはずである。そしてこの門、すなわち現在の瞬間そのものも回帰するのではなかろうか?



いま仮にあなたの一生をそっくりそのまま繰り返して生きたいかと尋ねるとする。たいてい人は「うむむ・・」となってしまうだろう。うむむどころか、気が狂いそうになる人だっているはずだ。ツァラトゥストラ自身も、この思想を受容するのに相当の勇気を要したのだから。「人生に意味などない」という観点からは、この永遠回帰の思想は到底受け容れられない。しかし、虚無主義に陥るだけでは、人生は生きるに値しないということになる。

この永遠回帰の思想を齋藤孝さんが「三色ボールペンで読む日本語」の中で、うまく説明しているので紹介する。長い引用が続くので恐縮ですが・・

ある一瞬、完全な喜びを自分が感じたならば、現在を肯定せずにはいられない。現在の状況、現在の自分を祝福せずにはいられない。それが完全な喜びだ。現在だけではなく、その現在に流れ込んでいるすべての過去も、同時に受け入れ肯定し、祝福したくなる。その過去の中には、苦々しいものや痛みもあるだろう。そうしたうんざりするような嫌な瞬間も、現在に連なる一つの鎖だ。そこが欠けては、今の完全な喜びの瞬間には結実しない。幸福と不幸、善と悪を超えて、すべてが繋がっているものとして、この世を愛する。(中略)過去も未来も現在に溶け込み、すべてが円環したように感じられるとき、ニヒリズム(虚無主義)は超えられる。(中略)円環が「そうか、これが人生というものか。ならばもう一度」という覚悟で受け止められるとき、すべての意味は肯定へと変わる。

ひとことで言うと「自分の人生を心から慈しんでいるか?」である。過去や未来に傷があるとしても、それを含んで愛せるか? 人生なんて、本当に悲惨で悩みがいっぱいでうつうつしたことの繰り返しです。自分の人生の全部をそっくりそのまま愛するのは無理としても、その一部、極端に言えば「完全なる一瞬」があれば、耐えられるのではないか? 「よし、もう一度!」と思えるのではないか。その「完全なる喜び」を目指して、こつこつと毎日を積み重ねる。一瞬の中に永遠は存在すると信じて・・

自分の日々の生活を愛すること。それがひいては「人生の肯定」につながる。そのことを竹内まりやがうまく歌にしています。「毎日がスペシャル」という曲。これ、ニーチェ先生が聴いたら、髭をピクピクさせて喜ぶだろうなぁ(笑)。毎日がスペシャルであれば、永遠回帰の思想は全然オッケーなわけです。こんなポップな曲調で、さらりと重大事を語ってしまう竹内さんって・・やるなぁ~♪ ちうか、むしろこの「厳粛さを吹っ飛ばすような軽快さ」こそ、ニーチェが欲していたものだと思うんだけど。

最後にひとつ印象に残る言葉を記す。

わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。・・かれによって一切の物は落ちる。怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!(中略)いまはこの身は軽い。いまはわたしは飛ぶ。いまはわたしはわたしをわたしの下に見る。いまはひとりの神が、わたしとなって踊る思いだ。

全ての厳粛をあざ笑い、軽快にダンスする。これ、ニーチェの理想です。そんな風に生きることができたら、素敵だなぁと思う。まぁ、現実には難しいとしても、常にそうありたいと心の中で願いながら生きていきたい。本作は、これからの人生の節目ごとに読み返したいと思います。