アドルフに告ぐ(3)

「アドルフに告ぐ」に関して、最終回です。

最後は#3の絆・・アドルフ・カウフマンとアドルフ・カミルについて。二人のアドルフは、かたやナチス党員の外交官の息子、かたやユダヤ人のパン屋さんの息子。本来なら友達にはなれない関係である。しかし、純粋な心をもつ少年期に、二人は熱い友情を結んでいく。具体的には、お坊ちゃんのカウフマンが日本人の悪ガキにいじめられるのを、カミルがたくましく守ってやる。本当に微笑ましくて固い絆だった。

しかし、である。本作の最後で、二人は荒涼としたレバノンの砂漠で、心の底から憎み合い、殺し合うのだ。ここには、あの少年時代のの熱い友情はかけらも見当たらない。この時の二人の心の中にあるのは「正義のために、おまえを殺す! どうしても殺してやる!」である。要するに「正義」という魔物が二人を切り裂いてしまった。そうした「正義」が彼らの中で形成されるのに、いろんな紆余曲折があるにせよ、である。

ここでちょっと飛躍して、例の2001年の9.11事件を思い出して欲しい。あの時、大量の米国人が死んでいくのを、パレスチナの子供たちは無邪気に狂喜乱舞していた。これは言うまでもなく、子供たちがそういう「教育」を受けているからである。「憎むべき米国人が死ぬことは、よいことだ」あるいは「正義のために米国人を殺すことは許される」と。だから「アドルフに告ぐ」が鳴らす警鐘は全然過去のものではなく、現在に生きるものと言える。

「正しさ」を振りかざすところに、真の平和は来ないと思う。人により「正しさ」は異なる。各人の「正しさ」をちゃんと認識して理解すること。社会的に見て間違いがあれば、ちゃんと助言してあげる。そして、その人が「はみご」にならないように気遣ってあげる。また逆に、誰かからそうした好意のこもった助言があったら、ありがたく聞き入れる。そうしたことが、真の平和には欠かせないと思う。子供に「自分の正しさのためなら他人を殺してもよい」などと教育するのは、もちろん論外である。

しかし・・現在中東で起こっている泥沼の紛争は、根本が「正義どうしの刺し違え」みたいなところがあるので、われわれ単一民族国家には理解を超えるものがあるよね。でも・・ひとつだけ言えるのは「正義のためには人を殺してもよい」という理不尽な教育で犠牲になるのは、紛れもなく子供なのだ。それは、作中でアドルフ・カウフマンが述懐している通りである。

最後になったけど、正義とは・・人生を意義深く生きるためには不可欠なものだ。特に、自分を高めていくときには必要だろうと思う。ただ、自分の「正しさ」を節目ごとに反省する習慣はあっていいだろう。他者を罰するときは尚更である。くれぐれも、天下を取ったように「振りかざす」ことだけは避けたいと思う。

以上「アドルフに告ぐ」を読んで感じたことを記しました。