アドルフに告ぐ(2)

前回に引き続き「アドルフに告ぐ」について語ってみたい。

今回は#2の絆・・由季江とアドルフ・カウフマン。れっきとした親子です。由季江はごく普通に学童期のアドルフを可愛がっていたし、アドルフも母をとても慕って愛していた。しかし、である。10歳の時に、ナチス党員である父の遺志で、半ば強制的にドイツのAHS(アドルフ・ヒットラー・シューレ)というナチス幹部養成のための学校に入学させられる。それからわずか八年の歳月が、ごく普通だった親子を無惨にも引き裂く。その原因は、教育である。アドルフは、少年期から青年期にかけてナチス魂とでも言うべきものを、徹底的にたたき込まれた。最も唾棄すべき教育は「正義のためには人を殺してもよい」という教えである。

ユダヤ人銃殺テストの場面はとても象徴的だ。アドルフの標的となったのは、数奇なことに親友アドルフ・カミルの父親であった。戸惑いながらも、必死でその試練を乗り越えるアドルフ。二人銃殺した後、ひどい嘔吐を催して倒れ込む。その時の教官のかけた言葉がとても印象的だ。

「無理もないさ、気にするな。
おれが最初に自分が殺した死体を見た時も、吐き気がしたよ。
だが、敵を殺すことを平然と行えるようになるには、
一年もかからなかった。君もじき慣れる」


こうして、アドルフは子供の頃あんなに嫌っていたヒットラーを、神のように崇拝するようになり、筋金入りのナチス高官にのし上がっていく。

まるちょうの思うに、教育ってなんて恐ろしい行為なんだろうと。人間を、ある意味で180度変容させうる力を持っているのだ。それも、素直な性格の人ほど、いわば無反省に異色に染められていく。だから、教育とは広義の「マインド・コントロール」だとも言えるだろう。全体主義とこのマインド・コントロールは、不可分なものなんだろうな。だから、アドルフ・ヒットラーという人物は、ある意味宗教の教祖のような存在だったのかもしれない。

こうして、終戦間際にアドルフが神戸に帰郷して、由季江と再会しても、昔のような普通の平穏な親子関係を結ぶことは、当然不可能だった。わかりやすく言えば、アドルフは親子の絆よりも、ヒットラーに忠誠を誓うことを優先したのだ。それが彼にとっての正義であった。しかし、である。ヒットラーは戦死し、ドイツは敗戦。自分の判断の空虚さ、滑稽さをひしひしと感じるアドルフ。瀕死の重傷を負って意識不明の母との再会。間違いに気づいた時は、すでに絆は元には戻らなくなっていた。

以上のように、#2の絆はとても皮肉な結末である。広義のマインド・コントロールって、結構あまねく存在すると思うんだよね。まるちょうが強く思うのは、コントロールする側(つまり上位者)に、邪心はできるだけ少ない方がよい。一番普遍的なのは親子だろうね。くれぐれも、公平で理性的なコントロールを心がけたいと思う。

誤ったコントロールで一番被害を被るのは、素直な聞き分けのよい人である。それにしても・・誤ったコントロールが、いかに世界を跋扈しているか。正しいコントロールというものがあるとすれば、それは「自省を忘れない」コントロールだろうと思う。無反省からは、真の教育は生まれない。

次回は#3の絆について語る予定です。