先日のコンサートの前に、ウェイン・ショーターが語った言葉です。この言葉を耳にして、まるちょうの霊感は大いに刺激された。そして、以下のような仮説が頭の中に次第に出来上がった。
つまりこういうこと・・人は、生まれつき善と悪の割合が決まっている。例えば、Aさんは善57%悪43%、Bさんは善41%悪59%というように。大多数は善と悪が似たような比率だが、一部に善が多すぎたり、悪が多すぎたりする人がいる。
善と悪のバランスがある程度取れている人は、常識人として平凡だけど幸せな人生を送るだろう。一方、善と悪のバランスの悪い人は、波乱の生涯を送ることになる。
悪が多すぎるとどうなるか?この場合は、自我が芽生える思春期に大きな節目を迎える。周囲のしっかりしたサポートが欠如すると、凶悪な犯罪を起こすだろう。例の「酒鬼薔薇」なんか、これだろうね。こうした人は、普通に人に接しているだけで、害悪をまき散らしてしまう。そのことをいつか自覚して悩み、その原罪を克服していけるかどうか。おそらく克服できる人は、ほんの一握りです。大多数は、自分の悪に支配されながら、暗闇の中で生きていくだろう。しかし、もし粘り強く自分の悪と闘い、乗り越えることができたなら、「悪をコントロールできるアイデンティティ」として、社会に君臨する日が来るだろう。つまり、自分の持つ悪を社会において具現化する人になるのだ。
善が多すぎるとどうなるか?この場合については、思春期において、いわゆる反抗期が無くなる。つまり、自我の形成が著しく遅れる。したがって、青年期に社会に適応するのに苦労するだろう。おそらく、うつ病をはじめとする精神障害になりやすい。何故って、「善」は自分を削って相手のために尽くすという属性があるから。自我がある程度形成され、行き過ぎた「善」をコントロールできるようになれば、その特異なアイデンティティをもって、社会に対して大いに還元できる日が来るだろう。ちょと大げさだけど、イエス・キリストを始めとして主要な宗教の教祖は、みなこのタイプだろうと推測する。
生まれつき善と悪のバランスが悪い人は、いわゆる「幸福」を感じるまで時間がかかる。おそらく、生きる喜びを感じるのは、中年以降ではないか?それまで、粘り強く自分の厳しい宿命と闘えるかどうか。「大器晩成」という言葉は、そうした宿命を乗り越えた人たちのための言葉だと思う。
以上、善と悪に関する私見を自由気ままに語ってみました。あしからずm(_ _)m。
波乱のない平凡な幸せと、波乱の末のの野垂れ死にと、どっちが自己満足なんだろう。
わたしには大器晩成はなさそうです。
何が善で、何が悪かなんて、決められるものだろうか?
一見善に見えても、見方を変えれば悪のこともある。
明らかな悪のように見えても、それが存在することが本当の善を生むきっかけになることもある。
善か悪かを考えるよりも、自分に正直に生きることの方が、はるかに大切だと思う。
をを!コメントが二つも!\(^o^)/
ありがとうございます。m(_ _)m
これからも、どうかよろしくです♪
>uzukiharuhaさん
やっぱ、のたれ死には辛いっす。
死んだら、元も子もないからね。
波乱の人生の方が、死ぬ確率は高いです。
平凡って、そんなに悪いものじゃないと思います。
>S&Mさん
簡単に言うと、
相手に与えるのが「善」です。
相手から奪うのが「悪」です。
もちろん、与えることで、相手に不快なこともあるでしょう。
奪うことが、かえって相手に都合がよい時もあるでしょう。
しかし、ここでは一般論を言ってます。ご賢察下さい。
自分に正直に生きることは、大切ですね。
でも、善か悪かを考えながら生きるのも
同じように重要だと思いますよ。
要はバランスかと。