納屋を焼く/村上春樹

この本を読んで。今回の本は「螢・納屋を焼く・その他の短編」(村上春樹 著)。学生時代に一度読んで放ってあった。村上春樹の短編集というのが、ちょっぴり気になっていたので、今回再読してみた。学生の頃は「蛍」の切なさは、すごく理解できたんだけど、「納屋を焼く」の意味するところが全然分からなかった。しかし今回の再読で、おぼろげながら、春樹さんの言いたいことが分かった。

筋としては大体こういうこと。ほら、田んぼのすみとか海辺とかにぽつんと建っているおんぼろ納屋があるよね?完全に放擲されている納屋。これを焼いて楽しむわけです。つまり簡単に言うと放火だな。れっきとした犯罪です。しかし、大体そんな納屋は20分かそこらで簡単に焼けちゃうから、遠巻きに眺めているだけなら、捕まることもない。そして、これが一番大事なのだが、無くなって悲しむ人はいない。そんな「遊戯」。


この遊戯を語るのは、頭が切れて仕事もできる一人の青年。でも話の筋から言うと、彼は納屋を焼くのではなく、実際は、数ヶ月前から付き合っている「彼女」を消し去ったのである。彼女は、身よりもなく、ぽつんと孤独に生きていた。まさに納屋のような存在。いなくなっても誰も悲しまないし、誰も困らない。

「ノルウェイの森」の永沢さんが、この青年と基本的に同様の思想を持っている。ハツミさんという素敵な彼女がいながら、夜の街に出かけて、まるで修行僧のように、他のつまらない女性と寝る。そしてハツミさんを果てしなく傷つける。結局二人は別れて、数年後ハツミさんは自殺する。

「納屋を焼く」の青年とこの永沢さんに共通するのは「過剰な向上心」である。「不適当な上昇志向」と言ってもよい。上昇するためには、他の存在を傷つけてもよいという思想。その罪を追求されそうになると、すかさずその優秀な頭脳で自己を正当化する。揺らぎ無い確信を持って行動しているので、それはまさに「神」の意志みたいだ。彼らは、自分はそういった行為をすることを「許されている」と、心のどこかで思っている。

上層階級には、こんな思想を持っている人が結構いるんだろうと推察する。つまり、神を目指す人。しかし、私たちは究極的には神にはなれない。そこに大きな矛盾がある。こうしたタイプの人は、まるちょうはすごく苦手です。ただし、こうした人は女性にはすごくもてます。しかし、一人の女性を愛し抜くことはできない。むしろ女性を傷つけることの方が多いだろうな。男性からは疎んじられるだろう。

このタイプの人は、村上春樹も嫌いと言ってる。ニーチェ先生も同様。最後にニーチェ先生の雄叫びを記して終わりにします(笑)。

「大地に忠実であれ!」