(再掲)となりのトトロ/宮崎駿 監督

「となりのトトロ」(宮崎駿監督)を観た。映画のBlogを書き始めて久しいが、実はずっとジブリ作品をちゃんと観たいと思っていた。宮崎監督のアニメはもちろん面白いんだけど、面白いだけでは済まされない「何か」が仕組まれているような気がする。大人はそういうのを「哲学」と呼ぶんだけどね。まるちょうは、そうした「ちょっと深い意味づけ」みたいなのが好きです。まずトトロやってみる。これ、20代前半に観たときは、それほどピンとこなかった。20年以上経過してもう一度観て、今回は実に感動した。そのへんの自分の変化も踏まえつつ、なぜ宮崎監督がこうした世界観を描こうと思われたのか、考えてみたい。次のふたつの軸で。

#1 トトロって、なんだろう?

#2 現代(大人)が失ってしまったもの

まず#1から。トトロとは何ぞや? これを明確にしておくのは、けっこう大事だと思います。まずWikiを参考にして、簡単に記述してみます。

塚森に棲んでいる、灰色の毛で覆われた謎の生き物。ご神木(大クスノキ)の中の異次元の世界で眠っている。子供にしか見えない。一見怖い感じもするが、実は優しかったりする。子供は本能でそれを嗅ぎ分けて、上下関係なく、いっしょに遊ぶ。のんきそうな身振りだけど、魔術のようなことをやすやすとやってのけたりする。

こうして真面目くさって書くと、けっこう反発とかありそう(笑)。世の中には、トトロファンがわんさといそうだし。トトロのまるちょう的定義は、ずばり「神仏の使者」です。ここでいう「神さま」とは西洋的な神ではなく、東洋的な「自然と一体となり息づいている」神です。西洋的な「明確な線引き」をしない神。「曖昧さをあえて許す」神だな。別な表現をすると「陰翳を好む」神かな。作中ふとしたところに、こうした「陰翳」が丁寧に描かれている。これ、見逃しやすいけど、たぶん宮崎監督はこだわっておられたと思うのね。そうした「陰翳」に、東洋的な神様は宿っていると。西洋的な「明るさ」とは、対照的だと思う。

舞台設定そのものが田舎であり、ちょっと昔の(西欧化されていない)日本であり、主要な登場人物も「性善説に基づいた」キャラです。正義と悪という、線引きをしない。お父さん(草壁タツオ)は、その意味では象徴的ですね。幼子のメイが言うことを、決して頭ごなしに否定しない。トトロという訳の分からない生き物についても、存在を確認できないにも関わらず「いるんだろうな~」的なのんびりした態度である。ここで「正義と悪」なんて持ち出すと、即行でトトロなんて得体の知れないものは、大人によって除外されるだろう。でも宮崎監督は、そういう風にはしない。あえて「性善説に基づいた曖昧さ」という世界観の中で描いている。



「曖昧さ」について、もう少し。こうした東洋的な世界観では、人間と神さまの境界がぼやける。西洋的な神さまは、きっちり線引きするよね。本作では「陰翳」を媒介として、人間と神さまは渾然一体となる。その「ひそやかな重なり」に入れるのは、子供(メイとサツキ)だけなのね。つまり、人間と神さまの境界に存在するのが、トトロ、ネコバス、まっくろ黒助なのだ。そこでは、常識や論理が消し飛ぶ。ある意味で「狂気の世界」という言い方もできるんだけど、本作はあくまでも子供用なのだから、そうした脱線はしない。これと似た味わいなのが、村上春樹の「羊男」だと思う。こうした「狂気の世界」が、現実にはどんな場合に起こりうるか。それはずばり「夢」なんですね。心理学的に意識レベルが落ちて自我が後退→無意識の世界に近づくと、こうした現象が可能になる。そこにはもちろん、常識や論理はない。大きなトトロが空を飛び、ネコバスが電線の上を疾走しても、なんの不思議もないわけね。こうしてトトロを再定義してみると「トワイライトゾーンに神出鬼没する善なるもののけ」と言えるかもしれない。

つぎに#2について。お蝶夫人♪に、トトロについてBlog書いていると言ったら、なんか嫌そうなオーラを出されてしまった。なんでそんなことするの~(-“-;)みたいな(笑)。彼女は「トトロは童話なんだから、感じるままに素直に楽しめばよい」という立場なのね。そうか!童話なんだね。思わず膝ポンだったね。子供はそういう風に楽しむんだろうな。つまり「無垢な心」で。私のように理屈をこねるのは「懐疑の心」で観ているということになる。たぶん宮崎監督は、両面で楽しめるように作られたんだと思う。子供は無邪気に楽しむ。そして大人は・・? それをこれから考えてみたい。

本作の封切り当時のキャッチコピーは「忘れ物を、届けにきました」です。これ、かなり気が利いていると思うんだな。何を忘れたんだろう? 人が成長すると共に後に置き去りにしていくもの・・純粋さ、弱さ、畏怖、無邪気さ、愚かさ、万能感・・等々。我々は、そうしたものを、ある意味犠牲にして、やっとこさ大人になる。これはどこか、一昔前の日本が歯を食いしばって這い上がってきた道のりに似ている。欧米に肩を並べようと、汗をかきかき頑張ってきた。そうしていわゆる「現代」に至る。一見堅牢で豊かな現代・・しかし現実には、人の心はすり減ってしまい、息苦しい世の中になってしまった。宮崎監督は「ホントにその生き方でいいの?」と問題提起するのね。現代人が失ったもの・・平凡で静かでゆっくりしていて、みんな一緒で・・ 本作は、それが全て描いてある。これは明らかにメッセージだ。つまり「あなたの元いた場所はここですよ」と。つまりノスタルジーなんだな。まるちょうが泣いた場面を記してみる。



夜中にトトロが畑の周りで踊っている。メイとサツキがドングリを植えていた畑だ。踊っているうちに、畑から芽が出る。あちこちから芽が出る。それはみるみる成長して、木となり、さらに大きなクスノキになってしまう。そしてトトロは、コマを取り出して、それに乗り空中を飛ぶ。弾けるような疾走感の中で、狂喜するメイとサツキ。朝起きると、畑に本当に芽が出ていた。

このシーン、20年前に観たときは、それほど何も感じなかった。今回、泣いたね~ これ、ずばり「忘れ物」に気づいたからに他ならない。若き日の万能感、逸脱する炎、生命の力・・こうしたものを、全てトトロが代弁してくれる。大人になって、閉ざされ、否定されてきた、そうした「大人として非常識なベクトル」を、トトロが画面を通して実現してくれる。特にちっぽけな芽から大木になるシーンは、圧巻である。凄いというしかない。口を開けてぽかーんとしてしまう。ここの「命の湧き出る圧倒的な力」は、素晴らしいとしか言いようがない。まさに限定されてきた自分が解き放たれるときだ。現代の冷たい殻を突き破るときだ。

最後に、本作は細かいストーリー展開などは、ほとんどない。ラストもとても簡潔。でもそれが却って、メッセージ性になっていると思う。こんな風に論じるのは、お蝶夫人♪を始めとするトトロファンにとっては心外なんだろうけどね。すまんすまん。じんわりと感動して、懐かしい、優しい気持ちになれる素晴らしい作品ですよね。以上「となりのトトロ」について、文章を書いてみました。