(再掲)セックスと嘘とビデオテープ/スティーブン・ソダーバーグ監督

えーっと、「ヒポクラテスたち」の再掲アップが、ある程度成功したので、映画コラムを中心に、過去の記事を再掲する試みをしてみたいと思います。もちろん、そのままじゃなくて、新たに映像を加えたり手を加えて。基本、木曜日の午前の予定で。忙しい時は、難しいかもしれません。とりあえず、やってみようと思います。自分なりに気に入っている記事をチョイスさせてもらいます。よろしくお願いいたします。




「セックスと嘘とビデオテープ」(スティーブン・ソダーバーグ監督)を観た。この作品を観るのは三回目。内容の濃さゆえに「わりと長い」イメージを持っていたのだが、なんと100分というコンパクトさ。全く無駄がない。一番感じるのは、監督の「精神分析的な」アプローチ。シンプルなスタイルだけど、表現していることはとても深い。本作のメイン・テーマは、ずばり「セックスと愛」について。この普遍的で深遠なテーマ。誰もが疑問に思い、ある人は正視できず、ある人は歪曲し、ある人は諦めている、この不可思議なテーマ。この難しいテーマを100分という短い尺で、実に印象的に描き切った監督の手腕は凄いと思う。1989年にカンヌのパルムドールを獲ったのも肯ける。 次のふたつの軸で語ってみる。

#1 登場人物の持つそれぞれの病気
#2 リビドーの行方



まず#1から。本作の主な登場人物は四人。まるちょうの思うに、どれも「広い意味での病気」を持っている。まず弁護士のジョン。彼は貞淑な妻を持ちながら、その妻の妹シンシアとのセックスに耽る。精神分析的に表現すると、リビドーをちゃんとコントロールできていない。リビドーにおいて、社会性が全く破綻している。当事者のシンシアでさえ「あなたは人間のクズよ」と言わしめる。次に不倫される側の妻、アン。彼女は元来が優等生であり、不潔なことあるいはルールから外れることを許せないタイプ。夫の「不倫の匂い」を本能的に感じて、その潔癖性に拍車がかかる。一種の強迫神経症だ。精神科医にカウンセリングも受けている。でも、トンネルから抜けられない。酒場で働くシンシアは「病気」とまでは言えないけど、優等生たる姉に根源的な劣等感を抱いていて、その夫であるジョンと寝ることで、姉に優越を感じる。特に姉の自宅でジョンと交わる場面では「姉と違ってだらしない自分が、勝利した」という一種の征服感に浸る。彼女にとって不倫相手のジョンは、姉を凌駕するための手段に過ぎないのだ。彼女はジョンを軽蔑している。

そこへ現れるジョンの旧友グレアム。彼の介入で、上記の日常から隠蔽された関係が暴かれていく。グレアムの病気・・この人は一番病んでいるかもしれない。過去に恋人とトラブルがあった。詳細は語られないが、とにかく深いトラウマだ。それ以来、彼は肉体を持った女性と交わることを止めてしまった。具体的には、女性に性的なインタビューをして録画し、それをネタにマスターベーションして性的な満足を得る。現実の女性とは交わらない。この彼の性的なスタイルは、精神分析的に表現するとどうなるか? 根源は「人間に対する恐怖」だと思う。もっと言えば「人間関係における諦念」。彼の世界観においては、リビドーは「不潔」とみなされている。ここはジョンと正反対だ。グレアムはリビドーを自己完結させようとする。自分をある意味で「孤独に追い込む」ことによって。彼は結局のところ、誰にも迷惑をかけたくないのだ。そうした彼の思惑とは裏腹に、ストーリーは進んでいくんだけど。

次に#2について。本作の切り口として、まるちょうは「リビドーのあり方」という観点を呈示したい。リビドーとは何か?「性的欲動」と捉えてもよいが、ユング心理学では「もっと広い意味での根源的欲動」としている。だから、リビドーという代物は、少なすぎても多すぎてもいけない。まさに中庸を求められる、それ故に扱いにくいものなのです。

ジョンはリビドー過多。それゆえに、弁護士の仕事は精力的にこなす一方で、倫理に反することを何の罪悪感も感じずに、刹那的な快楽を貪る。こうしたタイプの得意とする技術は、ずばり「嘘を上手につくこと」。そうして、お決まりの上昇志向。

グレアムは、ジョンほど陳腐ではない。9年前は、ジョンと同じように「嘘にまみれた」人間だった。しかし、そうした以前の人格がもたらしたトラウマから、自分のアイデンティティを変えてしまった。そこには根源的な自省がある。彼は誰も傷つけたくないのね。自分のリビドーの犠牲にしたくないのだ。つまり、清潔だけど歪んでいる。彼はリビドーを自我の囲いの外に出そうとしない。自己完結的に、自分の中で処理、抹殺してしまう。異性と自分を仲介するアイテムがビデオテープ、というわけ。完成したオナニスト。

まるちょうの私見だけど、究極的に、男性はジョンかグレアムか、どちらかしかないんじゃないか? じゃじゃ馬リビドーが外界を駆け巡ってしまう浮気者か、あるいはじゃじゃ馬をひっそりと自分の自我の中に押し殺してしまうオナニストか。倫理的に旗色の良さそうなのは、後者である。本作の結末も、後者の勝利に終わっている。第一、ジョンとグレアムを比較すると、その苦悩の深さの違いは歴然である。ジョンのような単純で悪質、陳腐な上昇志向、刹那主義、快楽主義は、叩きのめされて当然だ。グレアムの表象的には異様な「病気」は、アンによりその深みから掘り出され、露になり、アンの肉体と実際に交わることにより、癒された。まるちょうがこの結末に溜飲を下げたのは、言うまでもない。



一般論的には、オナニストが浮気者より優る点は、ずばり「他人を傷つける度合いが小さい」ことである。しかし前者の看過できない問題点は、これまたずばり、他人との関わりである。リビドーが自我により完璧に囲われてしまうと、他者との関わりにおいて「何らかの歪み」を避けられない。グレアムにとっては、ビデオテープだった。ラスト近くで彼がビデオテープを全て壊していく場面。この行為は自分の「哀しい歪み」との決別であり、不自由だったリビドーを解放するという、記念碑的なシーンである。

愛は自己完結からは生まれない。勇気を持って他者と関わることから始まる。本作はその「勇気の大切さ」を静かに、しかし凛として伝えていると思う。以上「セックスと嘘とビデオテープ」の感想を記しました。