茨木のり子の詩集をぼんやり読んでいて「知命」という詩に、はたと目を奪われた。平易なことばで、人生のある側面を炙り出す。茨木のり子のことば遣いは、ひとことで言うと「男前」。潔いことばの中から、読者はなにか「力らしきもの」を得る。まずはご一読ください。
知命/茨木のり子
他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるかしらと言う
他のひとがやってきては
こんがらがった糸の束
なんとかしてよ と言う
鋏で切れいと進言するが
肯じない
仕方なく手伝う もそもそと
生きてるよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな
まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて
ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ
一人で処理してきたと思っている
わたしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで
現代は「個」の時代という。iPhoneやiPadが生活の中に浸透し、日常で個別化がすすむ。詩集「自分の感受性くらい」の初版が1977年だそうです。当時の人間同士の距離感と、現代のそれとは、もちろん全然ちがうだろう。昭和の、アナログの匂い。例の寺内貫太郎一家とか、そういうの。でも、デジタルの現代でも通じる摂理が、この詩には含まれている気がする。
iPhoneやiPadを使おうが、個別化がどうしようが、人間関係を「ゼロ」にすることは不可能である。逆に「ゼロ」にできたとしても、そこから始まる「生活の虚無」のマイナスについては、言うまでもあるまい。だからこそ、我々は「しがらみ」に巻き込まれながら「もそもそと」手伝うしかない。鋏を持ってきて本当に「しがらみ」をぶった切ると、そこから生活の虚無は始まる。うるおいは無く、我がつよくなり、次第にタガが外れる。我々はあくまでも「もそもそと」他のひとのこんがらがりを解くしかないのだ。ああ、めんどくさ。
「それにしてもあんまりな」と言いなさんな。縁(えにし)とは、地獄であり恵みであると、茨城のり子さんは言っている。ここで過去の「恵み」を悟れない人は、それだけの人である。あの時の「やさしい手」があったからこそ、今の自分があるのではないか。人生には必ず「結節点」がある。つまり「こんがらがった結び目」ね。短気に鋏など持ち出さない。もそもそと、人生のこんがらがりを一緒にほどいて行こう。それこそが縁。スティーブ・ジョブズがいかに革命を起こそうが、こうした人生のしくみは永遠に変わらないのである。茨城のり子に諭され、文章こさえました。