北新地、京王線、附属池田小 → 何が彼らをそうさせたのか?

まるろぐは社会的なネタは苦手なのですが、ちょっと思うところあり、今回はシリアスに切り込んでみます。

#事件1 昨年12月17日に大阪、北新地で起こった痛ましい放火事件。26人が死亡し、被疑者も死亡。現場は「働く人の西梅田こころとからだのクリニック」で、院長も死亡。被疑者の自宅から、2019年7月の京都アニメーション放火殺人事件や2021年3月に発生した徳島県雑居ビルで発生した放火殺人未遂事件に関する新聞記事の切り抜きが見つかっている。また「放火殺人」「大量殺人」「消火栓を塗る」などのメモも押収された。じっさい、放火殺人は極めて周到に実行されており、強い殺意と計画性をうかがわせる。

僕はこの事件をみて、昨年10月31日の京王線刺傷放火事件と2001年6月8日の附属池田小事件を連想した。犯行をおこなった人の「心的構造」が似ていると思ったのだ。この二件についても、簡単にまとめておこう。

#事件2 昨年10月31日、東京都調布市を走行中の京王線上り特急列車内で、乗客の24歳の男が刃物で他の乗客を切りつけた上、液体を撒いて放火し18人が重軽傷を負った。16名は、火災による煙を吸って、喉の痛みを訴えた。犯人の男は殺人未遂容疑で警視庁に現行犯逮捕された。

#事件3 2001年6月8日に大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で発生した無差別殺傷事件(建造物侵入・殺人・殺人未遂・銃刀法違反事件)。宅間 守が校内に侵入し、同校の児童(いずれも1年生・2年生)8人を出刃包丁(刃体の長さ15.8 cm)で殺害、15人(児童13人および教職員2人)を負傷させた。日本の犯罪史上稀に見る無差別大量殺人事件として、社会に衝撃を与えた。

極私的な視点をお許しください。これら三人の犯人はみな「勝ち負けの中でしか生きれない人たち」だと思う。我々は、しょっちゅう負ける。会社で、家庭で、その他の人間関係で我々は負ける。敗北感や劣等感が生じるが、ある人は発奮してこの負の感情を乗り越える。あるいは、負の感情が次第に薄くなり、流される。三人の犯人の心的構造はどうか。それはおそらく「投影」と呼ばれる防衛機制だと思うのね。自分が負けたことを、自分の責任と受け止めない。敗北感や劣等感が、自省することなしに、どんどん「社会の匿名的な場所」に不法投棄され、次第に散乱していく。責任転嫁という名のもとに、いつしか「他人が悪い」という認知のクセがつく。そうして漠然とした社会への不信感、憎悪、復讐心が、しんしんと沈殿していく。

彼らの「生きづらさ」については、究極的には本人しか分からない。でも多分、それは想像を絶する不快感、怒り、劣等感だと思う。それは地獄のような苦しみであり、孤独であり、絶望だろう。彼らは死にたかったのだ。自死すればよかった? もちろんそれは、正論です。でも彼らの心的構造をもう一度、考えてほしい。投影をやすやす自分に許してしまう人格に、自殺が可能だろうか? 彼らの心のどこかに「悪いのは奴らだ」という曖昧模糊な殺意がある。「奴ら」が誰なのか、彼ら自身もよく分かっていない。「死刑にして欲しかった」と言うが、これは多分、後付けだと思っている。とりあえず彼らは、自分の人生に終止符を打ちたかったのだ。確かに、これらの事件で彼らの「社会的自死」は達成できたのだから。

三者とも、被害者の命の重さとか、罪悪感とか、そういうものは全くないと思う。彼らは孤立、困窮、挫折、絶望により、すでに自暴自棄であり、論理破綻を起こしている。彼らの殺意は「社会の匿名的などこか」に対してあり、その暗部に「悪い奴ら」がいるのだ。この心象は、もちろん妄想障害による。殺傷の現場は、できるだけ劇的で派手なのがいいのだろう。だって、彼らにとっては一世一代の「表現」であり「主張」なのである。事件2でジョーカーの扮装をしてふんぞり返ってタバコをふかしていた若者を思い出す。そこには自省のかけらもない。自己陶酔すら感じられた。なにしろ彼はようやく「自分のありのままを存分に表現できた」のだから。

これも想像でしかないけど、彼らの脳内は常に「戦場」なのである。彼らは勝たなければ、生きている意味がないのだ。そういう「軸」の中で生きている。あるいは自分をそこに「はめ込んでいる」。そうして同時に、自分は死ぬまで「勝ち組」になれないという固着した絶望がある。だからこそ、彼らは自分の人生の最期に「祭り」をしようと思った。つまり一世一代の「表現」であり「主張」ね。ひとひらのときめきを望んだのである。サディズムに彩られたときめき。

上記みっつの事件で命を落としたり、心身に傷を負った人たちのことを想うと、暗澹たる気持ちになる。それは何ていうか、まったくの「無駄死に」だから。犯人の本当の殺意は、何度も言うけど、殺された具体的な人たちに向かっていない。あくまでも「社会の匿名的な場所」に向かっている。そこにいる「悪い奴ら」にである。事件1のクリニックの院長先生、患者さん、スタッフの方々。事件2の重傷を負った老人と車両で極限的な恐怖を感じた方々。事件3で犠牲になった八名の幼い命と傷害を受けた生徒と先生。ご冥福をお祈りすると共に、いっときも早い精神的肉体的快復をお祈りする次第です。今回はあえて、異常心理に「降りていって」、自分なりの解釈を展開しましたが、加害者の理不尽さに対する怒りや悲しみが癒えることはないでしょう。

最後に。新聞にも特集して書いてあったけど、これらの悲劇を未然に防ぐ手段としては「対話」になると思う。こうした犯罪病質の人たちが「孤立」したときに、その内なる「悪意、憎悪、殺意」があらわになる。家族でもいいし、知人でもいいし、医療者でもいい。対話で少しでも心の中の「悪しきもの」を吐き出せれば、その人の心の穢れはマシになり得る。そういうことで言えば、上記三件ともまさに「孤立」している。内なる悪魔にリアルな自分が取り憑かれたような状態だったのでは? デジタル化が進み、SNSが隆盛を極め、個人主義が勝る現代。医療者の一人として、気をつけなければなあ、と思ったのでした。以上、社会的なネタでシリアスに文章こさえてみました。