「大人になるためにはウソは必要である」という仮説について

「あすなろ白書/柴門ふみ作」は、まるちょうの愛してやまない漫画です。柴門さんが本作でいちばん言いたかったこと。それは「人がどのようにして大人になっていくのか」 まさにその過程を描きたかったんだと思う。「大人になる」というプロセスは、まさに十人十色である。各々の人間が思春期から20代にかけて、社会という怪物に相対して頭をガンガンとぶち当てながら「大人」になっていくのだ。王道たるセオリーはないのかもしれない。

ただ、本作の後半で重要なシーンがある。主人公の掛居保と幼い空良(そら)が海岸で石を投げながら「強くなるためには、どうすればいいか?」について、語り合う。掛居くんは社会人だが、まだちゃんとした軌道にはのっていない。空良は感受性の強い少年である。「マッチ売りの少女」の紙芝居を見ただけで泣いてしまい、悪ガキから「男のくせに泣き虫、弱虫」といじめられる。「掛居さんのように強くなるには、どうすればいいの?」と問うわけ。

掛居くんは「俺だって強くない、弱虫だよ。弱虫に生まれた人間は一生、弱虫のままだ」と幼い空良に飾らずに打ち明ける。ここ、まるちょうもすごく共感できる。僕自身、強い人間ではない。実際に双極性障害という魔物を抱えて生きている。「弱虫は一生、弱虫のまま」というのは、冷めた名言であり、真実である。掛居くんは「弱虫も努力すれば強くなるなんてウソだ。それはただのまやかしだ」と吐き捨てる。

海を眺めながら、掛居くんはひとつの新機軸を空良に伝える。弱虫が社会で生き残るための知恵。

いじめる奴らに慣れて、強い人間のふりをするんだ。

ここで、2007年2月1日のBlogから引用してみる。

「大人」になるということは、一種のハッタリである。おそらく誰しもが、そうしたウソの中で生きている。そうした「ハッタリ」は、生きる上での必要悪だろう。世間で「強い」というイメージの人が、実は醜悪な幼児性を持っていたりする。むしろ、そんな「ウソ」の上手な人ほど出世してしまう、それが現実の社会だったりする。そして、隠れた内面に醜悪な幼児性を残しているような人ほど、弱い者をいじめて喜ぶ。そして、心の感じすぎる善良な人は社会からはみ出てしまう。げんなりしちゃうけど、そういった構造が現実社会には厳然としてある。掛居くんは、それに対抗するために「慣れ」と「ふり」を主張するのだ。それこそが「大人」への道だと。

「慣れ」と「ふり」というのは、一種の演技だと思う。魑魅魍魎のうごめく現代社会の中で生きるために、こうした「演技」は、誰しも思春期から20代くらいに経験しているはず。この宿命的な「演技」は、みな無意識でやっている。早熟な人はクールに「社会」を立ち回るだろうし、いわゆる「KY」な人は、いつまでも「社会」から叱責を喰らう。こうした「人生における不平等」は、なんとかならんのかね。

「クール」という姿勢について考えてみる。そこには何かしらの「悪」が存在すると思う。「ふり」という虚偽が、彼を高みにあげている。つまり「悪」は大人になるためのスパイスなわけですよ。一方「ピュア」はどうか。そこに虚偽の入る余地が少ない。背伸びできないので、大人になるまで時間がかかる。僕は、空良が大人に到達するまでの「迫害」を憂慮する。「ふり」が他人へのウソとすれば「慣れ」は自分へのウソである。「慣れ」は、マゾヒスティックなウソだと思う。自分を騙すわけだ。でもそうしないと「ピュア」は生き残れない。


結局、大人ってなんだろう? それは「慣れ」とか「ふり」という虚偽を、自分の中で許す精神構造である。そう、世間で「大人」と呼ばれる人たちは、こうした「虚偽」を自然に、無意識のうちにやっている。「ふり」はいわゆる「ペルソナ」に当たるだろうし、「慣れ」は「寛容」ということになろうか。「自分の中で許す」どころか、彼らはそのことを誇りにすら思っている。大人はこういう虚偽を「必要悪」と呼ぶ。いかにも「大人らしい」やり口ではある。

「大人になるためにウソは必要である」という仮説について、語ってみました。「悪」を体得することは「人間の裏の営み」を垣間見ることにつながる。もちろん「悪に溺れて」はいけない。でも「悪にアレルギーを起こす」のは同様にいけない。個人的には「悪」は成長における「ちょっとした梯子」なんだと思っています。最後に掛居くんの言葉を載っけて、終わりにします。

決して傲慢な人間にならないこと、これが肝腎だ。大切なのは他人に敬意を払い、自分に誇りを持って生きることだ。それさえできれば、ウソをついてもいい。