この作品には、ありとあらゆる「暴力」が描かれている。それは平凡な日常の「すぐ裏側」に存在し、隠蔽された空間で、弱者を苦しめる。あるいは戦時となれば、その暴力を巧みに操れる人ほど「強力な支配者」となり得る。暴力はこの地上からなくなるだろうか? その答えは「否」である。世界平和が叫ばれる現代で、誰もが暴力のない日々を希求する中で、村上さんはふたつの選択肢を示していると思う。次のふたつの軸で語ります。
#1 綿谷ノボルの暴力と支配について
#2 間宮中尉という生き方を考える
今回は#1について。綿谷ノボルのプロフィールをざっと記します(Wikiより)。
クミコの兄。東京大学経済学部卒業。イェール大学大学院に2年間留学したのち、東大の大学院に戻り研究者となる。離婚歴があるが、現在は独身。伯父の綿谷義孝は戦時中、陸軍参謀本部に勤め、公職追放が解かれたのち参議院議員と衆議院議員を歴任した。34歳のときに出版した経済学の専門書が批評家から絶賛され、マスメディアの寵児となる。伯父の地盤を継いで政界への進出を図る。
本作には二人(いや、正確には四人くらい?)サイコパスが登場する。綿谷ノボルは強力なサイコパスキャラ。「サイコパス」という言葉を定義するために「罪と罰/ドストエフスキー 作」より下記を引用してみる。
すべての人間は「凡人」と「非凡人」に分かれる。凡人は、つまり平凡な人間だから、服従を旨として生きなければならないし、法を踏み越える権利もない。ところが非凡人は、非凡なるがゆえに、あらゆる犯罪を行い、勝手に法を越える権利を持っている。(中略)「非凡人」は、つねに法の枠を踏み越える人たちで、それぞれの能力に応じて、破壊者ないしはその傾向を持っている。彼らの大多数は、よりよき未来のために現在を破壊することを要求する。しかもその思想ために、屍を踏み越え、流血をおかす必要がある場合には、彼らは自分の内部で、良心に照らして、流血を踏み越える許可を自分に与えることが出来るのだ。
とても古い引用だけど、サイコパスの意識の中核を突いていると思う。綿谷ノボルは、まさにこうした「歪んだエリート意識」の持ち主であった。個人的には、かのアドルフ・ヒトラーをモチーフにしているかもしれない。本書から引用してみます。
彼は大衆の感情を直接的にアジテートするこつを身につけていた。大多数の人間がどのようなロジックで動くものかを実によく心得ていた。それは正確にはロジックである必要はなかった。それはロジックに見えればそれでいいのだ。大事なことは、それが大衆の感情を喚起するかどうかなのだ。
綿谷ノボルは、ドストエフスキー的に表現すれば「大地を穢さずには生きて行けない人」です。周りのものを陰で食い物にしながら、自分は成長していく。具体的にはクミコの姉の死。クミコが唯一心を開いていた人物。主人公の岡田トオルの考えによると、クミコの姉は、綿谷ノボルに性的虐待を受けていた。それも巧妙で、絶対に露見しない方法で。彼は女性を穢すとき、ある意味、呪術的な手法で女の肉体と精神を支配していく。具体的には、加納クレタが受けた汚辱である(長くなるので割愛)。
井戸の底の「壁抜け」から、深層意識の闇での決闘。トオルはその決闘に勝つのだが、所詮、暴力を以て暴力を制したまでのこと。彼は激しく嘔吐してヨレヨレになる。でもそれは「必要なプロセス」だったのだ。綿谷ノボルは現実世界では「一種の脳溢血」で倒れ、意識不明。そうしてクミコが綿谷ノボルの病室に入って生命維持装置のプラグを抜いて、トドメを刺す。クミコは刑務所に入ることなど、少しも怖くなかった。むしろ綿谷ノボルという怪物が生きている方が恐怖だったのだ。この殺人はだから「自我の解放」という表現もできるかもしれない。
教訓その一「戦うべきときは、躊躇してはいけない」 ただし、無意識の中では暴力は止まらない。理性が消しとんだ状態では、暴力を止めようと思っても、止められないという現象がある(本書の他の箇所に描写あり)。だから、暴力というのは制御しにくい行為だと思う。次回、#2について語りたいと思います。