リビドーを管理するということ(小さなカミングアウト)

みなさんはご存知だろうか? iPhoneには「性行為」を記録する機能がある。「ヘルスケア」というアプリから入って「その他のデータ」へすすむ。そこに「性行為」という項目がある。そこで性行為(マスターベーション含む)を記録するわけ。下記のような言葉が添えられている。

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調べてみると、Androidにも同様のアプリはある(アイナーノという)。こちらの方が、機能は充実しているみたい。

みなさんはこうしたアプリに、眉をひそめるだろうか? 僕は肯定派です。というか、大人になればなるほど、こうした「管理」は必要になると思う。Appleはいみじくも「身体的健康と情緒的健康の影響」とのたもうた。じゃ、性行為が我々にどう関与するのか? 心理学的にいうと「リビドーを介して」ということになる。若いころならば、リビドーに振り回されて、いわゆる「若気の至り」ということが起こっても、許されるだろう。でもアラフィフのおっさんがリビドーの傀儡となるのは、そりゃみっともないわけです。リビドーの調節は、オトナになればなるほど「重要事項」だと思っています。

リビドーは本来的に邪悪で逸脱を好みます。村上春樹の「スプートニクの恋人」のミュウという女性の経験するエピソードが、まさにそれです。リビドーは性欲を満たすのに貪欲であり、倫理のかけらもなく混沌としている。しかしその反面、人間はリビドーがなくては生きる意欲が湧いてこない。ミュウのドッペルゲンガーが、彼女のリビドーをあちらの世界に持っていくわけですが、どんな人間もそうした「じゃじゃ馬なもう一人の自分」を抱えているわけです。いわゆる「生きる上での困難さ」のひとつは、ここにあると思います。

ミュウは上記のドッペルゲンガーを見て、嘔吐して失神します。病院で目が覚めると、髪の毛が真っ白になっていた。彼女は「半分死んだ」のです。ここでひとつ、大きな「選択」が我々を待っています。リビドーに馴染むのか、嫌悪するのか? おそらく100%馴染んだ人は、太宰のいう「牛太郎」「快楽児」ということになります。なんの生産もせず、刹那的にだらだら生きる人。逆にミュウみたいに極度に否定してしまうと「自分を分裂させる」事態にまで発展してしまう。なぜならリビドーは紛れもなく、自分のコアにあるものだから。

かくして人間は、あるいはオトナたる我々は「リビドーを調節する」必要がある。ちょっと赤裸々ですが、僕はその「行為」を、しっかり手帳につけています。僕の場合、双極性障害という精神疾患を持っているので、リビドーの管理は必須なんです。リビドーの余剰は不眠を引き起こすし、不足は軽いうつにつながる。ここで全部は書けませんが、Appleの言葉を借りれば「身体的、情緒的な不具合」が生じるわけ。

ネットをみると「オナ禁」という言葉はあるようだ。貝原益軒の「接して漏らさず」という養生訓も有名。これらはリビドーを貯めるアドバンテージを主張している。ただ、私見を述べますと、リビドーはある程度貯めたあと、排出した方がいいと思っている。ほどほどのところで「更新」してやると、フローが生じて「身体的、情緒的な安定」がもたらされる。これはあくまでも、個人の感想かもしれませんが・・f(^^;)

最後に、ちょっとスケールの大きな話を。心理学的見地からいうと、資本主義はリビドーに付加価値を見出すシステムであり、共産主義はリビドーを無毒化しようとするプロセスではなかったかと。後者において、人類はリビドーをてなずけることの難しさを学んだと言える。中学校の社会で習ったように、計画的に生産してみなに平等に分配するというシステムは、清潔で美しいと思う。でも結局、リビドー に翻弄される「弱い人」は存在するので。だからこそ、リビドーを管理しよう。アラフィフのおっさんは、そのように思います。