平々凡々・・「浮浪雲」より

昨年5月にジョージ秋山が亡くなった。この「漫画でBlog」の題材にするには、なかなか難しいので敬遠していたんだけど、ひとつ「これはいい」というのが眠っていたので、やってみます。僕は「浮浪雲」をぜんぶ読んだわけではないし、それを評価できる資格もないですけど、やっぱ好きです。Wikiでジョージ秋山さんの生涯をささっとみる限り、やはり「ひとつのことを続けること」の重要性を考えずにはいられません。まずはあらすじから。

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五作は浮浪を尊敬する町人。妻と五人のこどもをこよなく愛する。五作いわく「あっしの場合、ただのただ者だってのを良く知ってやすから。生まじめに平々凡々とやってますよ」「(家庭の他に)大事にするものがねえっていえば、ねーわけでして」

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そんな中、林の中で五作と若い娘が抱擁しているのを目撃! 目撃したのは五作の嫁とカメ(浮浪の嫁)。カメは「まったくもう、男ってものは! よーし、わたしがとっちめてやる」と勇むが、五作の嫁は「カメさん待って。あの人、家庭を捨てるような人じゃないから。そう信じてるから」


五作は逃げる。若い女性は本気なのだが。「なんでまたあっしみてえなのに、もう。いい男はたんとスクリーンショット 2021-01-04 22.48.28いるだろうによ」「わたし、父親には苦労させられたからかもしれない。おじさんみたいに大人で優しい人に、わたし・・」

五作いわく「あっしみてえな才覚のねえ男には、家庭ひとつ守っていくのがせいぜいよ。おめえみてえな若くってきれいな娘さんとどうこうする甲斐性はねえよ」と。後日、五作はその娘のことを想いつスクリーンショット 2021-01-04 22.49.05つ、海へ飛び込む。そうして邪念を振り払うように、しゃにむに泳ぐ。

また後日、五作と妻の会話。五作はことの成り行きについて、正直に述べる。「しかしな、生まれて初めてもてたよ」「あなたはわたし達のために、今までにだって・・」「馬鹿いうんじゃねえ。あたしゃね、おめえ達のために自分を殺したことなんか、いっぺんもねえよ。あたしのいっとう大切なものはおめえ達だ。おめえ達がいるから、あたしゃ幸せなんだ。あたしの方こそ、おめえ達に感謝してるさ。ありがとうよ」

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ぐしゃぐしゃの顔になって、泣き崩れる妻。それをそっと抱く五作。ふすまの向こうから、それをうかがう五人の子供達。

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本作の冒頭で老人がこう語る。

あらゆる人間関係においてもいえまするがね、支配したり服従しましたり、ま、あるいは夫が妻を支配したり、妻が服従したりとね。しかしながら、支配したり服従したりしないで・・それでいて、何者かであり得る人間は、偉大だと申し上げたいわけでしてね。



いかにこの世は「支配と服従」という構造が多いか。生活様式の西欧化に伴い、こういう構造は右肩上がりかと思います。ジョージ秋山さんの思想は、とても東洋的なもの。現代の流れが「白黒の境界がきつい」ものとすれば、ジョージ秋山さんのは薄明。彼はロジックや計算を超えていくものを目指していたと思う。そう、現代が失った何か。

ロジックや計算を超えるとはなにか? ☞ 阿呆になるということですよ。阿呆になれば、心は解放される。そうして「足るを知る」という知恵を授けられる。つまり、いま現在、自分を取り巻いている状況を愛するということだ。ドストエフスキー的に言うと「大地を愛する」という言葉になるか。根底には「自分を生かしている大地に対する感謝」がある。

五作が若い女に言い寄られたときの感情を考えてみたい。個人的なことを言うと、「恐怖」「戦慄」だったと思うのね。僕はその気持ち、よく分かるんです。不倫というのは、ある意味で「自分を裏切ること」なんです。不倫をやすやすとしてしまう人は「大地に唾を吐く人」なんです。

阿呆が「何者かであり得る」という逆説は、そう多くはないだろう。しかし、もしその矛盾を秘めてスクリーンショット 2021-01-04 22.49.58生きる人があるとすれば、それはやはり「偉大」なんだと思う。今パッと思いついたのは「フォレスト・ガンプ」は、まさにそれかな。みんな、もっと阿呆になろうよ。ジョージ秋山さんの遺志のひとつは、まさにそれ。今はただ、合掌するのみです。最後に、この「泣き顔」を描ける人は、ジョージ秋山以外にないです。ほんまに。