心筋梗塞は「災害」である?

9月14日(土)の総合内科外来。午前9時すぎ、開始早々にM看護師が診察室に飛び込んできた。「先生、胸痛の患者さんです! 心電図のオーダー下さい!」 僕は「ええ? そうなん?」みたいな感じでオーダーする。そして通常の外来業務にもどる。しばらくしてM看護師が「先生! AMIです!」と、また飛び込んできた。心電図をみると、確かにⅡ Ⅲ aVFでSTあがっとる。どうみても下壁STEMIである。M看護師はこの胸痛患者さんの最初から関わっている。つまり「気持ちが一番入っている」人なのだ。

土曜日なので、C病院はカテができない。土曜日のファースト・チョイスは、MK病院である。わがT診療所のAMI搬送手順に、そうまとめてある。AMIはたまにしか起こらないので、この「AMI搬送手順」を忘れてしまう人が多いのは、困りものである。僕が会議でみなさんと話し合った結晶なのである。

話がそれた。M看護師は、患者さんの胸痛の訴えから、心電図を手早くチェックし、下壁STEMIという診断を導き出した。僕はMさんのことを優秀だと思う。だが、ちょっと待て。Mさんは「すぐに搬送する」ことにこだわる。確かにAMIは時間との勝負である。搬送は早いに越したことはない。まさか丸腰でQQ車に載っけるわけにはいかないから、ルート取って載っけるか。うーん・・そこで僕は、一抹の違和感を覚えていた。


僕は「AMIセット」を敢行することを選択した。瞬間の判断だった。でもその「瞬間」には、これまでの膨大な経験から培った「哲学」があった。M看護師は、やや怪訝な表情で(そうでもなかったか? 笑)、僕の指示に従った。そりゃ、医師の指示が一番だもんね。ごめんね。

「AMIセット」は、数クリックでAMI患者さんに必要な検査、点滴、O2投与、NTG舌下、モニター開始、アスピリン300mg投与などを可能にする「神セット」である。「神」と思っているのは、おそらく僕一人なんだけどね。つらいね。このセットでAMI患者は、相当にプロテクトされると自負している。そう、来院時のような「丸腰」ではなくなる。つまり「臨床的なコントロール」の状態に入れる。その中で、今回のAMIがどの程度のものか、評価する余裕が生まれる。

この患者さんは、NTG舌下を二度しても、胸部症状がゼロにはならなかった。そして、採血ではトロポニンIが500台だったが、CPKは正常域だった。オンセットが8時だったので、心筋壊死がまだそれほどすすんでいない可能性がある。そのへんを確かめてから、おもむろにMK病院へ搬送の手続きをはじめた。QQ車にはM看護師が同乗した。助かります、ありがとう。

すみません、ここからが本題です。ウォークインのAMIが発生すると、外来は修羅場になる。一診が完全に閉鎖となるため、通常の患者さんをさばけなくなる。待合にただよう疲労と焦燥。こみ上げる怒り。そうした情動を抑えようと懸命になるNs。もちろん通常の患者さんをさばくDrは、カルテが山積みとなり、先が見えない勝負となる。10年以上、現在の外来業務をしてきて、何度も直面した局面である。AMIが起こるたびに「またか!」と震える指で、AMIに必要な検査、処置、処方をクリックする。

こうした「修羅場」は、年に数回もない。だから、すぐに忘れ去られる。その愚を繰り返さないために、僕は「AMI発生時の搬送手順」をつくった。ちゃんと会議も通した。でも結局、僕以外の人間は忘れちゃうのね。AMIには、常に「院内死亡」という怖い影がつきまとう。上記のM看護師は、その意識をしっかり持った人だ。だからこそ、早期の転送を主張した。でも・・急げば急ぐほど、現場は緊張感を増し、さらなる修羅場へと向かっていく。個人的には、そう考えます。

AMI発生は、診療所を荒らす「災害」だと思う。いかにその「災害」をコントロールするか。これはとても難しい問題です。よく言われるのは「災害を教訓として、風化させるな」ということ。AMIの患者さんも、待合にいる通常の患者さんも、ハッピーにしてあげたい。この矛盾した希望は、医療者がしっかり心に刻まなければならない。災害に立ち向かうというのは、そういうことです。以上「心筋梗塞は災害である?」と題して、文章こさえてみました。