デクノボーがマキャベリズムを学ぶとき

最近「マキャヴェッリ語録/塩野七生著」を読んでいる。以前からいわゆる「マキャベリズム」には触れてみたかった。というか、アラフィフにもなってマキャベリ知らんなんていうのも、唐変木すぎるやろ。別に君主になりたいとかそういうのではなく、人間はどうしたって何らかの人間関係の中で生きざるを得ないし、あるいは組織の中で生きざるを得ない。そんなとき、どうしても必要なのが「悪というスパイス」だと思う。悪に目を伏せてばかりいては、人間関係を保つことができない。悪を含めて人間関係を考えないと、どうしても理想論に堕してしまう。「悪というスパイス」は、我々の人間関係をビターな眼で観察させてくれる。だいたい、現実というのは「ビター」なものゆえに。

マキャベリがこう言ってる。

わたしは断言してもよいが、中立を保つことは、あまり有効な選択ではないと思う。とくに、仮想にしろ現実にしろ敵が存在し、その敵よりも弱体である場合は、効果がないどころか有害だ。中立でいると、勝者にとっては敵になるだけでなく、敗者にとっても、助けてくれなかったということで敵視されるのがオチなのだ。



僕は「中立を保つ」傾向が、どうしてもある。誰とも与せず、孤独に作業をすすめる。気がついたら、四面楚歌ということが、これまでの人生に幾度もあった。


そもそも「中立を保つ」とは何なのか? まず、他人と群れるのが得意ではない。例えば、当たり障りのない世間話なんか、大の苦手。そして、へんに求道的なところがあったりする。悪く言えば「自分の殻に閉じこもりがち」。「どちらかにつく」ということができない。そう、派閥ね。だいたいが政治的な人間ではないのだ。機転が利かず、たいていぼんやりしている。そうして大勢はすでに動いている。もちろん、時代おくれ。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を思い出してもらいたい。

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノノ

小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ


使えないデクノボーは、まさに僕の理想であります。僕はこの詩を読むたびに、なにか涙がにじむのです。この宮沢賢治が記した人間像は、まさに中立を保ってしまう人なんです。計算ができず、機転が利かない。言ってみれば、マキャベリと真逆の人間像なのかも。でも、なんでこの詩がみんなに愛されるのか? それは世の中の誰もが、宮沢賢治の理想のように「善に生きる阿呆」になれないからです。みんないつかは、マキャベリズムを学ばなければならない時がやってくるんですよ。それが現実。厳しい現実。

おかげさまで現在、僕は中立を保っています。具体的にどうこうは言えませんが、自分の中では「中立」だと思っています。中立を保つためには、相応の力が必要である。青年期とは異なり、今はいちおう「医師」として、社会的な力を持っている。ふたつの診療所に勤めて、それなりの力になっていると自負しているし(おそらく僕がいなくなると、けっこう困ると思う)、経済的な力もまあまあある。繰り返しになるけど、中立を保つためには、それ相応の「力」が必要です。そうでないと、あっという間にバランスが崩れて滅びると思う。学生時代の脆弱な時期に、むりに中立を保とうとして、ボコボコにされた苦い経験がある。マキャベリさん、あんたの言うことは正しいよ。世界中のデクノボーに告ぐ。悪を学ぼう。宮沢賢治の憧憬は、それはそれとして、悪を学んで大人になろう。生きていくには、それしかない。以上「デクノボーがマキャベリズムを学ぶとき」と題して、文章こしらえました。