センチメンタルって、無意味なんだろうか?

みなさん、ふとした瞬間に「ほろ苦い過去」がよみがえる時って、ないですか? 「あの時、ああしておけば・・」「あの時、こう言えばよかったのに・・」 つまりこれは「感傷」ということになります。心が後ろ向きになっている証拠。すでに結論がでていることを、ぐちゃぐちゃ混ぜ返すというプロセス。でも確かに「あの時ああしておけば」相手の人生も、自分も、なにかが変わっていたはず。こうした虚しい反省から、ブルーな気分が舞い降りてきて、最後は「あの時はどうしようもなかったんだ」という、実に凡庸な結論にいたる。こういうの、僕だけだろうか? みなさん、ないですか?

具体例を挙げましょう。大学一年の部活で、K先輩から可愛がられていた。夏合宿から西医体にいたるまで、僕がボケ、先輩がツッコミみたいな立ち位置で、和やかにやっていた。大会が終わって二人で新幹線に乗っていた。ずっと和やかな雰囲気だったのだが、ふと先輩のボケ(と自分では思っていた)に対して「アホか」とタメ口でツッコんでしまったのだ。先輩はこのひとことで、気分を害してしまったようだ。元来がセンシティヴな性質の人だった。それ以後、京都につくまでずっと無言。もう前のような距離感は戻ってこなかった。僕はK先輩との「じゃれあい」を、とても気に入っていたのに。

そんな30年も前の「微かな痛み」が、ふと胸をよぎることがある。K先輩は試合態度も素晴らしかったし、なにより純粋な人だった。尊敬する人に、突然無視されるという暗転。今となっては特に会うこともないし、別段気にすることもないんだけど、たまに「微かな痛み」が僕の中を漂流する。

例えば、こんな唄どうでしょうか?

この唄って、まさにこうした「もどかしさ」を代弁してくれるように思う。

いつでも捜しているよ どっかに君の姿を

交差点でも 夢の中でも

こんなとこにいるはずもないのに

奇跡がもしも起こるなら 今すぐ君に見せたい

新しい朝 これからの僕

言えなかった「好き」という言葉も

この男は、やわになっている。心がどこか傷んで、動きがとまっている。そうした状況に、このような心象が忍び込んでくる。この刹那の混乱は、少しの痛みと甘さを含んでいる。そうして優しく彼を包み込んでいく。僕は双極性障害があり、健康人よりはストレスを感じやすいかもしれません。仕事の終わりで緊張がゆるんだ時などに、こうした「刹那の混乱」がやってくることがあります。この時、思考は停止しています。心が前進することを拒み、それこそ「やわ」になっている。あれは俺のせいだったんだ、あんなこと言うべきではなかったんだ、等々。マイナス思考という負のスパイラル。まあ、とんかつ○ルミでメシ食ったら、そんなブルーな気持ちは雲散霧消するんですけどね。

山崎まさよしが表現する「男の想い」は、意味がないんだろうか? いや、人間いつも前進しているわけじゃない。ちょっとブルーになって思考停止、なんてこともありますよ。そう、人間なんだから。山崎まさよしは、そうした「人間の弱い側面」を慰めるために、上記の唄をうたっている。ブルース、なんでしょうね。時はもどせないけど、想うことはできる。たとえそれが無為な時間だと冷笑されようとも。

センチメンタルって無力だけど、独特の甘さがある。それはベールに包まれた過去が、ある意味で「憧憬」のようになっているのかもしれない。そんなん全く無責任だし意味もないけど、精神の安楽には必要なことなのかもしれない。「あの人は、今頃どうしているだろうか? 幸せに暮らしているだろうか?」なんて無責任な想像をして、遠い目になる。微かな痛みと甘さを感じながら。