両親の終活を考える

今回は大真面目なテーマです。今年、実父が米寿、実母が79歳になる。うちはハッキリ言って恵まれていると思う。周りのアラフィフを見渡すと、親の介護で大わらわなところが多い。そう「大わらわ」で普通なのです。うちの両親はいろいろあるにせよ、健在で頑張っている。素直に「すごいな~」と感じています。でも! やはり寄る年波には勝てない。近年、二人とも「老い」を感じるようになってきた。それは子どもからみた変化もあるし、二人とも「避けられない老い」を自認している部分もあると思う。

母は頚椎と膝に弱点を抱えている。2017年の5月に重症の頚部脊柱管狭窄症と診断され、手術を受けた。本人は「あの手術で、それほどよくならんかった」なんてくだを巻くのだが、あのオペをしてなければ、今頃寝たきりになっていたと僕は思う。だから執刀医のK先生には、とても感謝。頭はしっかりしていて、スマホに挑戦するなど、知的好奇心は旺盛。

父は2014年の1月に、白内障の手術を受けている。本人の意見としては「それで著しく見えるようになったわけではない」と不満そう。あと、歯の状態もあまりよくない。よく「目と歯は大事にしなさい」という教えがあったりするのだが、父はそういう意味では不安がある。大きな病気はないけど、歩幅はどうしても短くなる。もう米寿だもんね。70代は舞鶴で少年のように(←言いすぎか)、野山でタケノコとかワラビとか採っていた父である。ちょっとした柵なんか、ひょいっと越えていったものだ。そんな父も、さすがに80代後半ともなると、つらい。自分でもはがゆさはあるようだ。


二人とも「終活」にずっと消極的だった。「自分がいずれ死にゆくこと」について、あまり考えたくなさそうだった。それはいい意味では「楽天的」ということになる。そう、僕の両親は「まあ、どうにかなるわいな~」で生きてきた人たちなのです。その「生き方の功罪」は、僕自身の人生の中でしみじみと味わってきた。僕はできるだけそうした二人の「生き方」を尊重してあげたいと思う。だからこそ「死にゆくことの準備は必要だよ」と諫めることも特になかった。内心は煮え切らない想いでいたとしても。

そんな中、昨年八月に叔父が逝った。享年85。うちの両親とは、かつて懇意にしていた人だ。喪主は息子さん(僕とはいとこの関係)で、僕の母と長電話したようだ。死後の叔父の家の混乱、どこに何があるのか分からない。印鑑ひとつ探し出すのに五時間とか。「おばちゃん、終活ちゃんとしとかんと、えらいことになるよー!」 この魂の叫びで、うちの両親にようやく終活のスイッチが入った。「明日は我が身」という稲妻が走ったのだ。

九月のある日、実家をたずねると、父が赤いファイルを僕に渡した。父が全力を投入して、終活に取り組んだあとが見受けられた。死亡したときの手続き、葬儀の種類、お墓のこと、誰を葬儀に呼ぶか、葬儀の規模、財産分与、等々。それらをつぶさに点検して、両親の大まかな「死後の希望」を確認した。もちろんまだまだ流動的な部分も多い。しかし、それらはこれから次第に詰めてゆけばよい。「スイッチがようやく入った」ことに、僕は大いに安堵した。

お墓をどこにするかという問題。両親は伏見とか大津とかの樹木葬なんかを挙げる。できるだけ後の者が負担にならないように、という配慮である。最近、通勤途中にふと「二人とも本心では、故郷の舞鶴に墓が欲しいのでは?」という疑念にとらわれた。今月、二人に「お墓は、本当は舞鶴にして欲しいんじゃないの?」と切り出してみた。両親と兄と僕は、すべて舞鶴生まれ。しかし、僕はあまり舞鶴に「ふるさと」というイメージがない。それは小学五年生のときに向日市の学校へ転校したからかもしれない。つまり舞鶴に10年しか住んでいないのだ。それに対して、父なんかは約45年は舞鶴に住んでいたことになる。母だってそう。二人とも「舞鶴に対する思い入れ」は、僕や兄の比ではないのだ。

しかし、両親はその疑義を一蹴した。「そのことは既に決着ずみ」と言わんばかりだった。少子化が進む昨今、墓地は荒れ放題。ちゃんと子孫がいるとしても、お墓はちゃんと管理されるとは限らない。それだけお墓の問題は、大変化を遂げている。両親の本意は、墓にはできるだけカネをかけず、後の者がやりやすいようにしたい、ということ。そうかそうかと頭を掻きつつ、もっと勉強しなければと反省した。これからも少しずつ、両親の終活には関わっていきたいと思っています。両親はネットのない生活なので、その辺での情報提供ができればと思っている。以上「両親の終活を考える」と題して、文章こしらえてみました。