医療に人間性や人生観を投影させる必要はあるのか?

ジャズ・ギタリストのパット・メセニーが、こんなことを言っている。

演奏が上手いミュージシャンはいくらでもいるんだ。しかし、その多くはプレイで伝えたいことに欠けているように感じる。演奏技術はあるのに、彼らの存在や人生が投影されていない。技術や知識はあくまでも音楽を表現する上での手段に過ぎないわけで、伝えるものがなくては本末転倒だ。



四年前のジャズ雑誌に載っていた。ふと感じるところがあったので、今までiMacのデスクトップに熟成させていた。もはや「なんでこんな言葉をため込んでいるんだろう?」という状況だったんだけど、つい最近になって「Blogネタとしての意義」を思い出した。

つまり、パットは音楽家としての高い志を言ってるわけだけど、これは「医療者」に応用できないだろうか?ということです。もちろん、音楽家は「リスナーに伝えて心を震わせる」という役割がある。一方、医療者は「患者の病気を診断して治す、癒やす」という役割なので、方向性の齟齬はあるかと思う。でも、そうした「主たる方向性」に付加して「自分の人間性や人生観」を、そこはかと奏でるのは、悪いことではないと思うのです。


例えばです。僕は双極2型障害という、ややこしい精神疾患に10年以上、翻弄されてきました。その10年でみてきた地獄、医療の限界、そして仄かな光明。僕は双極性障害の当事者なので、うつや躁うつ病の患者さんが外来受診されたら、もう本能レベルで察知します。その患者さんの語る「つらさ、暗さ、しんどさ、絶望感」が、あの当時の僕に重なるからです。心の底から共感できる。これは他の内科医にはあり得ない能力でしょう。これまさに、僕の歩んできた人生が投影されたスキルと言えます。

最近は、人間の仕事がAIに奪われるんじゃないか?という、社会の不安みたいなものがあります。例えば、将棋はすでにAIが人間を凌駕している。そして棋士はAIに反駁するのではなく、うまく共存の道を選んでいます。それじゃ、AIが医師に取って代わる? たぶん、それは難しいと思います。それは、対象が「将棋」という数学的、論理的なものではなく、「人間」というファジーなものだから。「人間」という、このわけの分からないもの。もちろん多くは、素直で善良な人たちですが、必ずしもそういう「まとも」な人たちばかりではない。というか医療者は、そうした「まともでない」人たちに、いかに興味を失わずに注力できるかだと思うんです。そうした人たちは、通り一遍の問診にも、有効な回答をしてくれないことも多い。その辺がAIが医療には馴染まないと思うゆえんです。

「ファジー」と先ほど表現しましたが、要するに「人間らしさというブレ」ということ。このブレがなくなったら、逆にAIへと還元されるわけです。さて、この「ブレ」に対応するために必要なものは、何でしょう? 僕は人間としての深さだと思います。つまり「その人が、いかにブレた人生を送ってきたか」ということ。そう、堅く言えば、寛容性でしょうか。その背景に潜むのが「深い人間性と人生観」です。患者さんが「この先生は、私のことを理解してくれている」という安心感を抱くこと。これ、診療のいちばん基礎です。これがないと、いくら熱心に診療しても、馬耳東風に終わりがち。患者さんに「この先生でなければ」と思わせること、これは医師としての勲章みたいなものかもしれません。

結局のところ、患者さんに共感できるツボをたくさん持っている医師は、信頼関係を築きやすいでしょう(専門用語でラポール形成と言います)。もちろん、基幹としてのスキルはないと困ります。そしてスキルを維持するための勉強の継続も必要。その上で、診療に「人間性や人生観」が投影できる医療者は素晴らしいと思います。冒頭のほうで「奏でる」と言いましたが、まさにこれは一種の表現ではないかと。そしておそらく、AIが逆立ちしてもできない芸当なんだろうと思うのです。以上、パット・メセニーの言葉からインスパイアされて、文章をこしらえてみました。