「一年の計は元旦にあり」なんですかね?

2005年の一月に「一冊の手帳で夢は必ずかなう – なりたい自分になるシンプルな方法」という本に出会った。著者は熊谷正寿さんというIT企業の社長さん。詳しい内容は忘れたけど、要するにこういうこと。例えば15年という比較的長いスパンで「自分はこうなりたい」という夢や目標を具体的にもつこと。年表を作成し、各々の年の目標を書き込む。そして手帳で月、週、日の単位で管理していく。

15年という歳月は、ある意味で「魔法のような」時間なのである。かんたんな例が子どもかな。赤ん坊だった子が、15年したらもう中学卒業なんである。この奇跡。その子が歩んだ日々の重さは、親が一番よくわかっている。そのように「自分の時間をわが子のように慈しんで使う」ことで、夢は叶うはずというのが熊谷さんの主張です。


2005年当時ちょっと感動して、早速「ほぼ日手帳」を取り寄せた。そうして15年年表を作成した。実物は個人情報のキモが満載なのでお見せできませんが・・ 当時の「夢」がいろいろ記されている。例えば「住宅ローンの完済」「抗うつ剤の減薬完了」「体重を10kg減」「読書家になる」「人脈をつくる」「ギターを弾けるようになる」「将棋ネット初段」「Blogを週二回更新」などなど。

達成できた目標もある。でも当然というか、叶わなかった夢の方が多い。圧倒的に多い。ギターはすでに売り飛ばしたし、人脈なんて言葉はくそ食らえと思ってるし、ネット将棋もすでにあきらめた。Blogも現在は「晴耕雨読」なんて言葉でお茶を濁しているし。でも・・ 「夢」って、そんなにいくつもあったら、神様が困ってしまうでしょ。本当に大切な夢が叶ったら、それでいいと思っています。

15年経過して、初めて見えてくることもある。自分の悪癖、限界、意外な資質。あるいは中年になったからこそ分かる身体的な不利も。だから、15年経過して目標達成どころか進路変更を余儀なくされることって、大いにあると思う。そこで「夢の喪失」とか嘆いているようでは、いかんと思うのですよ。50歳の私の目の先には、結構な長さの歳月が先につづいている。ベクトルを変えること。これはむしろ自然だと思う。

そこで重要なのが「自分の人生をどこまでマクロ的に見れているか」なんですね。そこで役に立つのが手帳であり、15年年表です。すべて記録されてますから。人生の「流れ」がなんとなく掴める。変化しようと思ったときに、自分の「定点」が分からなかったら、不安じゃないですか。「限界を超える」のではなく、限界については潔くあきらめて、他の選択肢を考えるというやり方。あるいは、既にある水路を太くしていくのもいい。

人はみな、いつか死ぬ。この真理は絶対です。50歳という年齢は、すでに人生を逆算していくフェイズに入っています。残された時間を、いかに有意義に使うか。65歳になったときに、自分はどんな風に生きていたいのか。そのイメージは、まだぼんやりとしか見えてきません。あるいは見えているとしても、オープンに話す勇気はない。だって癌の再発でころりと逝ってしまう可能性だってあるんだから。でもこれだけは言える。やはり「一年の計は元旦にあり」なんだと。「自分はもう生ききった」と感じている人は、それでいい。でも私はそんな感覚はぜんぜんないんです。人生において何かをなし得た、という感覚はありません。だからこそ、今後も年表をつけ、手帳をつけます。

15年という歳月は魔法となり得ますが、その中の一年、一月、一日は、リアルな階段です。「計=羅針盤」という言い換えも可能かと思います。だから今年も丁寧に一年、生きたいと思います。丁寧に生きるということは、つまり闘うということです。闘うということは、つまり考えるということです。そのようにして、また一年やっていきたいと思います。今年もまるろぐを、よろしくお願い申し上げますm(_ _)m