純粋さという「業」について語る

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上の画像は「過去を持つ愛情(人間交差点より)」という短編のいちシーンです。32歳の独身女性で、彼氏もいない。今から20年以上前の作品なので、32歳はいわゆる「オールドミス」という扱いとなる。そこへ世慣れた感じの後輩が、上記のような不躾な言葉をいいます。

男なんてみんな同じじゃないですかあ。姿、形、財産は多少違ってたって、どんな男もみんな変わりありませんよ。

 

「男なんてみんな同じ」という思想。これは是か非か? 主人公の32歳の女性は、不思議なほどの嫌悪感を抱いた。つまり「非」として描かれている。確かに、愛する男が「どれでもいい」というのは、無神経な心情だろうね。愛する男へのこだわりがあってこそ、関係は長続きするんだと思います。

ただ、この主人公の女性は、異性に対して踏み込むことを、ふと控えてしまう人なのね。「品がいい」という表現もできるけど、男女関係において「控えめ」というのは、たいてい損なことが多いです。遊び上手な後輩のように「雑種」的な女性の方が、モテるのかもしれない。「恋愛」という、ある意味わけの分からないコミュニケーションを、ずけずけと踏み込んで行けるような気もする。

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実はまるちょうも、恋愛においては「控えめ」な方です。だから青春時代には、ずいぶん損をしてきたように思う。「男なんてみんな同じ」という無神経さは、「欲望を満たす」という点では、うまく作用するのかもしれない。ただ「恋愛において控えめ」というのは、ひとつの生き方であり、それを損得で評価するのは間違っているような気がする。主人公は冒頭にこう漏らしている。

私は、生きているのが少し苦しいくらいが好きです。少し無理をしないと淋しさに負けてしまうくらいの自分が好きなのです・・・

 

この女性は単に「純粋」なのです。それを近所や職場、はたまた「社会」が、「この女、ちょっとおかしいぞ?」とひん曲げてしまう。女性いわく「32歳の独身の独り暮らしの女性に世の中の人は、どこかで何かが欠如した人間像を望みます」と。なんという自虐的な。彼女にも普通に恋愛する権利はあるはずなのに。ただ、彼女の「純粋さ」が、男を遠ざけてしまうという構造はあるかもしれない。

われ神に問う、純粋さとは「業」なりや?
いやいや、神に問うまでもなく「純粋さは業」なのですよ。それほど世の中は穢れている。人間の生は、ドロドロした汚れの中で成り立っているから。純粋さを貫けば、孤独におちいる。これは残念ながら、動かしがたい真理です。ラストシーンでの「私って、ついていないのか、不器用なのか・・・ 結局は、人を愛するのがへたなんですね」というつぶやき。そう、その通り。僕も人を愛するのが下手くそです。純粋さという「業」。ホントこいつに苦しめられてきた俺の人生~!(泣)

でもね、業のない人なんていないですよ。大事なのは、業から逃げず、向き合うことだろうね。業を認めて生きていくことで、他人の「業=苦しみ」も見えてくるはず。そうして、その人に優しく接することができるでしょう。それは些細なようで、素晴らしい社会リテラシーですよ。業を感じたら、居場所をみつけよう。迫害があったら、すぐ避難すること。主人公の女性は、純粋だけど強い人だ。まだ32歳。これから「自分の居場所」を確保することだろう。大事なことだから、もう一度言います。自分の業から、逃げないこと。以上、「純粋さという『業』について語る」と題して文章こさえてみました。