天空の城 ラピュタ/宮崎駿監督(※深読みです)

「天空の城 ラピュタ」(宮崎駿監督)を観た。過去にいちど観ているはずだけど、内容をすっかり忘れてしまった。Twitterで何度も話題になる(バルスという呪文)のに、ついていけない自分が淋しくて、一度ちゃんと観てみようとDVDは取り寄せていた。DVDが届いてから幾歳月たち・・ 気がついたら、今回の入院になっていた。K医大病院のテレビはDVDが観れるようになっていて、たしか術後一週間くらいで「ようやく」観ることとなった。

やることもないし、しゃーないな・・ と観はじめたが、さすがにジブリは面白い! どんどん作品の中に引き込まれていく。退屈な入院生活よ、サラバ!なんてね。画面の中でパズーとシータが躍動する! ドーラもいい味。まさに冒険活劇なのである。入院生活というのは「いかに時間を上手に潰すか」という悩ましい課題がありまして、ジブリはやはり「入院の友」としては最上なのかもしれない。

宮崎作品というのは大抵、「子供にかえって楽しめる部分」と「その背後に隠れる深み」があるように思う。鑑賞後、なにかが残る。少年少女はそれに気づかず、つぎの楽しみに飛び移っていけばいい。でも私はオヤジである。その「なにか」について、ちょっと書き留めたいのです。

本作に登場するのは、だいたい善人である。ただ一人、悪人が混じっている。ムスカ大佐、その人である。本作における「不協和音」とでも言おうか。支配欲に彩られた冷たい知性。オヤジである私は、このムスカ大佐を掘り下げてみたい。まずはいちばん有名なこのシーンを載っけておきます。




「見ろ! 人がゴミのようだ!」
この常軌を逸した科白を、仮にこう解釈してみよう。文明が進みすぎると、かつて主人公であった人間はゴミのようになってしまう・・どうだろうか? 道具としての科学がいつの間にか主人公となり、人間が道具となってしまうパラドックス。小難しく言えば、ムスカ大佐の悪意は、ゆがんだ唯物論に還元できるんじゃないか。彼は要するに、スペックにしか興味がないのだ。力を中心とした「モノ」にしか興味がない。力を「与えられるモノ」と規定し、自分で力を育てようとしない。そしてそうした力を「消費」することしか能がない。彼はいわば「消費の王」なのである。したがって、生み出す苦悩や努力を放棄している。いかに上手く玉座を手中にするか、それしか頭の中にはないのだ。要するに極悪のオタクなんだな。

だから思う。ムスカは宮崎監督が一番きらいなもののメタファーであると。ずばり「現代における病」を象徴しているように思う。それは都会がはらむ息苦しさ、渇きと無関係ではない。これは勝手な想像だけど、宮崎監督は「怒りながら」ムスカというキャラを描いていたんじゃないかしらと。それはもう、嘔吐しながら。だからこうとも言える。本作で宮崎監督は、進みすぎた文明に対して警鐘を鳴らしていると。

「バルス」という滅びの呪文がある。滅び? 本当にそうだろうか? 私はむしろ「初期化」とか「リセット」の意味が強いように思う。文明が進みすぎて、人間を不幸にするようになったとき、勇気をもって発動される呪文。高度な文明を全て廃棄して、ゼロに戻す力。ムスカのような悪の化身を文字通り滅ぼす呪文。この呪文を唱えるのは、やはり潔い正義の心をもつ人間 ☞ シータが適している。唯物論に対する観念論の勝利と言ったら、なにがなんだかわからないか(笑)。以上、オヤジの勝手な深読みBlogでした。無垢な少年少女よ、すまんな。