家族の匂い・・「家族の食卓3」より

ひさびさに「漫画でBlog」のコーナーです。今回は柴門ふみの「家族の食卓3」より「家族の匂い」という短編を取りあげてみたい。本作は、ずっと前に読んだときは「柴門さんらしさ」が無いような気がして、あまり感心しなかった。「家族の食卓シリーズ」の中でも異色の作品です。単なるハッピーエンドじゃない、なにか違和感をのこして終わる。柴門さんとしては、ちょっとした挑戦だったかもしれない。「家族の食卓3」単行本の冒頭にある言葉を載っけておきます。

人生において、家族と過ごす時間は

どのくらいあるのだろうか。

睡眠時間はおろか、通勤時間、

食事の時間以下の人もいるかもしれない。

だからこそ、会えない時間に、家族を想う。


まずはあらすじから。

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幸子と修司は五年目の夫婦で、子供はいない。幸子は香料の会社で匂いを作る仕事をしている。二人はよく夜に散歩した。幸子は二人で散歩するのが大好きだった。二人で世界を一人占めしているような気がして。二人は幸せだった。

そんなある日、何の前置きもなく修司が一人の少年を連れてくる。「親戚の子」らしい。名前は「ケンジ」で七歳。21三日ほど預かるという。共働きなので、仕方なく幸子がケンジを会社に連れて行くハメに。幸子の作業場にてやりとり。「ケンジくん、どんな匂いが好き?」「・・ママの匂い」☞ 口紅とおしろいの匂いを混ぜても、ケンジは「ちょっと違うみたい」と。うーん、と悩む幸子にケンジが抱きつく。「おばちゃんの匂い、ママと同じ。もっとかがせて」 ケンジの匂いはひなたと埃の匂い。子供の匂い。そうするうちに二人はぴたっと密着して、幸子は思わず「可愛い!」となってしまう。幸子は思う。修司さんの匂いってなんだろう? 「整髪料とかすかな煙草と地下鉄の匂い」かな?



二日目、幸子は会議でケンジは作業場で時間つぶし。会議でイヤな同僚いわく「ご主人、ちょっ27と残酷なんじゃない? 幸子さん、子供産めない身体だって知ってるくせに。ねぇ、親戚の子だなんて、ご主人がヨソで産ませた子供なんじゃないの?」と。実を言うと幸子は、新婚まもなくの頃、子宮の病気で子供が産めなくなってしまったのだ。(フラッシュバック)「ごめんね、修司さん。子供欲しがってたのに」「いいよ、幸子さえいてくれれば」46

作業場へ戻ると、ケンジが勝手に試薬を混ぜて匂いを作っていた。あれほど注意したのに! 幸子はケンジを平手打ちする。帰ってから、幸子は修司にくってかかる。「ケンジくんのママって誰? 従兄の嫁の妹って? 修司さんのなんなのよ?」 黙りこくる修司。どんどん激昂する幸子。そこへケンジが「帰る」08と。「ママのとこに帰る。ママとパパのとこに」 そこで幸子はハッとなる。パパは修司さんじゃないんだ、と。

後日、作業場に「おじちゃんのにおい ケンジさく」と書いたメモをみつける幸子。あれはあたしを喜ばせようとしたんだ・・ 幸子はケンジにお詫びの手紙を書いて修司にことづけた。冬休みにでもまた遊びに来てと。しかし、冬を待たずして修司は亡くなった。37進行性のガンだった。入院してあっという間の死だった。彼は幸子にはずっと体調の不調を隠していた、そして病名も・・ 

孤独な毎日。一人で働き、一人で一日を終え、一人で眠る。そんなある日、街で偶然、ケンジをみかけ51る。濃い化粧の女性に手を引かれて「レンタル家族」という看板の店へ入っていく。「ママ、ぼくもうこのお仕事いやだー」「わがまま言うんじゃないの。二日か三日おとなしくしていれば、いいお金になるんだから」 その女性からは強い香水の匂いがした。「ママと同じ匂い」と言ったケンジを思い出す。あれは幸子を喜ばすためのウソだったのか。13

修司は自分が余命いくばくもないことを知って、幸子に最後のプレゼントをしたのだろうか。二日だけの「家族」の思い出。修司が死んでからずっとやめていた夜の散歩を、幸子はふたたび始めた。かばんの中には修司とケンジの匂いが入っている。ひなたの匂い、埃臭さ、地下鉄と煙草と整髪料。家族の匂いに包まれて、幸子は散歩をつづける。




本作はどこか「村上春樹的」なところがあると思う。核心に「家族における孤独」があるから。ネガティブな色合いが強い。家族は結局バラバラだよ、と言ってる。だって、修司はいかにも言葉たらずだ。自分がガンであることを幸子にずっと黙っていた。どういう意図でケンジを連れてきたのかも知らせない。レンタル家族からの派遣なのに。柴門ふみ的でない不協和音。

でも考えてみてほしい。家族って、ある一線を越えてからは「引き算」じゃないの? 時間の経過とともに、老い、病気、事故、いろんな災厄が待っている。そうじゃなくても子供が独立したり、嫁入りしたりで「引き算」はあり得る。究極的には自分が死に行くときは、絶対的な「引き算」となってしまう。微かな戦慄。

本作では、幸子、修司、ケンジの三者三様の孤独が描かれる。作画は柴門さんなのに、描いているのは村上春樹的なもの。つまり、ハードボイルド的な。だから消化不良を起こしそうになるのかな。人間同士の不確かさ、距離の遠さ、行き違い。ありがちなことだし、否定はしないけど、なんだか息苦しい。

家族という絆はフィクションにすぎない。ここから出発したらどうだろうか? しかし、そのフィクションを全うすることができれば、家族は家族たり得る。そうして幸子のように「独り」になったとしても、平静に生きていける。ラストの独りで夜の散歩のシーン。修司とケンジの匂いを持って世界を一43人占めするのだ。これはかつてあった「絆というフィクション」に血を通わせる儀式のようなものかもしれない。それはひとことで言えば「祈り」なんだと思う。そう、かすかに残る祈り。

家族を想うということ。人生において、家族と過ごす時間はどのくらいあるのだろうか。それはわりと短い時間なのかもしれない。「家族という実体」は、あるのかな? ・・あぶない、あぶない。そこを疑うようでは、家族を語る資格はない。だからこそ、目を閉じて想う。会えない時間に、家族を想う。以上「漫画でBlog」のコーナーでした。