K先生、ありがとうございました。

さる7月19日の早朝に、ある恩師の訃報が飛び込んできた。享年96歳。4月に舞鶴のご自宅を訪問したときは、わりとしっかりしておられた。「まだまだ大丈夫だな」と思ったのも束の間、その四日後に脳梗塞を発症して入院された。もともと脚の筋肉が痩せている状態だったので、なかなか難しい状況だと思っていた。7月19日の訃報。しかし、7月から8月にかけて私は自分のことで精一杯だった。手術、退院をへて、ようやく頭が外界へ向かうようになった。先生の息子さんに連絡をとり、9月25日に「最後の訪問」をすることとなった。

この恩師(K先生という)のことを、少し語らせて下さい。小学一年生の時の担任である。私は舞鶴生まれで、もちろんその頃、舞鶴に住んでいた。中年のてきぱきと動かれる女教師という印象が残っているが、なんせ6歳時のことだから、あまり定かでない。それからただなんとなく、年賀状だけの付き合いが始まる。他の先生はなんとなく切れていく中で、そのK先生だけは不思議に年賀状のやりとりが続いた。

転機は1997年。私が30歳で医師五年目。その頃の私は双極2型障害という蟻地獄に苦しみ、あえいでいた。94年から三年間のK舞鶴病院での勤務を終了し、京都へ戻ろうとしていた。舞鶴を去るにつけ、ふとK先生のことが頭をよぎったのだ。「一度、訪ねてみるのも悪くないかな?」電話で確認すると、快く受け容れてくださった。K先生、77歳のときである。なんと24年ぶりの再会であった。


再会して、なにを話しただろう? やはり主に私の病状などを聞いて下さったように思う。その日は晴天で、庭のけやきの新緑がとても爽やかで、気持ちよかった。話がはずみ、それ以降、けやきの美しい春頃になると、先生宅へうかがっていた。2003年に結婚したときは、我がことのように喜んでいただいたし、2007年に私の体調が悪いとき「もうこの訪問も止めた方がいいかも」と切り出すと、とても悲しそうな顔をなされた。そんな山あり谷ありの訪問だったが、いつしか「先生が亡くなるまでは、責任を持って毎年訪問する」という覚悟が出来上がっていた。

ひとつ心に残る便りを紹介したい。消印は平成10年となっているので、1998年 ☞ ちょうど双極性障害の治療が暗中模索で、まだ前が見えていなかった頃だ。先生の励ましの言葉もさることながら、ハガキの裏面が星野富弘さんの作品なのね。当時これを受け取った私は、この星野さんの言葉に唸るというか、震えてしまった。世界にこんな言葉が存在するのかというほどに。

星野富弘


よろこびが集ったよりも

悲しみが集った方が

しあわせに近いような気がする

強いものが集ったよりも

弱いものが集った方が

真実に近いような気がする

しあわせが集ったよりも

ふしあわせが集った方が

愛に近いような気がする



これ、星野さんが頚髄損傷で口に筆をくわえて制作されているという事実を、ずっと後に知ることとなり、更に驚いた次第です。世の中には凄い人がいるなと。というか、なんという深淵で生きておられるんだろうと。したがって、当時の先生の精一杯の励ましを感じるわけです。学校では教えてくれない、人生の教えです。そして、人生の宝物です。

K先生を世話されていた息子さんご夫婦は、大変だったと思います。こうして故人のことを美化して書いても、いちばん近い存在は家族なのですから。25日は息子さんとお会いし、介護のご苦労や4月からの経過など、詳しくお聞きする予定です。もちろん、私の病状も伝えるつもり。そうした話し合いから、先生のご供養が少しでもできれば本望です。先生、長い間ありがとうございました。合掌。