スタンド・バイ・ミー/ロブ・ライナー監督

「スタンド・バイ・ミー」(ロブ・ライナー監督)を観た。ずっと昔に、テレビのロードショーなんかで観たことがあったんだけど、Amazonのレビューをボーッと眺めてたら、本作が圧倒的な評価を受けていた。これだけの客観的な支持をみると、やはり心動いてしまうのも人情。ま、ちまたは夏休みだし、こうした「夏の映画」を観るのも一興。おっさんの視点で、もう一度この映画を味わってみようと思ったのでした。



本作が優れているのは、簡潔なところ。四人の少年が主人公で、女の子は一切出てこない。純粋に「12歳の少年たち」の世界が描かれており、からりとしたトーンで一貫している。やんちゃで素朴で、背伸びしたがり、そして何かしらキズを抱えている。たった二日間の冒険だけど、家路につく頃には、四人とも静かになっている。冒頭から、あんなに多動だったのに! それは「ひと夏の冒険」で経験した何もかもが、抱えきれないほど大きかったから。なんという充足感なんだろう!

この「奇妙な充足感」は、私も味わったことがある。大学六年の冬、医師国家試験の三ヶ月前にネパールで遭難した旅のあとだ。あのとき家路にて「もうこんな旅をすることは、二度とないだろうな」と思ったものだ。あのとき一緒だったギリシャ人のアントニーとは、あの「遭難の旅」において、確かに友達だった。彼は笑顔でよく言ったものだ「Adventure Friend!」と。でも・・そのアントニーとも、今は音信不通となってしまった。本作だって同じだよ。この「ひと夏の冒険」から30年ちかく経過した現在、みんな疎遠なんだから。親しかった作家のゴーディと弁護士のクリスでさえ、10年くらい会っていない。「現在というリアルな時空間」においては、みな疎遠なのだ。

そこで思うわけですよ。「友達って、なんなんだろう?」って。人と人は出会い、うたかたの時を共有し、そしてすれ違っていく。すべては「流れる」。そういう意味では、時間とは悪魔なのかもしれない。森羅万象をすり減らし、枯渇させ、老化させていく。そうした悪魔的な「時間の経過」の中では、友達はつねに「過去の関係性」として見出される。

弁護士のクリスがレストランで刺殺された記事をみて、いまや中年のゴーディは12歳の夏の出来事を思い出すのだ。あの夏、あの時しか味わえなかった、共感、躍動、悲しみ、慰め、勇気、怒り。おそらく・・その記事を目にするまでは、ゴーディは、すっかり忘れていたに違いない。人は大切なものを失って、初めて気がつくのだ。少年クリスが、あの12歳の夏に、どれだけ自分にとって大切な存在だったかを。ゴーディの心に微かな痛みが走り、そうして少年クリスの言葉を思い出す。

おまえはいい小説家になれる。いい文章を書く才能があるよ。おまえの父さんは何もわかっちゃいない。兄さんのことで頭がいっぱいなんだ。才能があっても、それを誰かが育てなければ才能も消えてしまう。おまえの親がやらないなら、俺が守ってやる。

「過去の関係性」は、どんなに重要なものでも、錆びついた記憶の断片の中に埋もれていたのでは、なんの足しにもならない。ゴーディはそれを文章化して、掘り起こすことにしたのだ。作家たる自分がそうすることにより、あの12歳の夏の友情を実証できると思ったから。「実証」するって何だろう? つまり、流れていく記憶を書き留めて、時間を止めることである。小説として世に遺せば、もしかしたら永遠たり得るんだから。もしそうなれば、時間という悪魔は追い払われる。

話を戻して「友達って、なんなんだろう?」の答え。一時的にでも「同じベクトル」に乗っかって、いろんな感情を共有できる仲間がいたら、それが友達だと思う。でも前述のとおり、そうした関係性は永続したためしがない。哀しいかな、全ては「うたかた」なんである。でもゴーディのように本当に「心ある人」ならば、うたかたに帰せず、ちゃんと実証する。もしかすると、ゴーディはレクイエムとして、この小説を書いたかもしれない。少年クリスへの恩返しとしてね。ラストの、ゴーディが文章を書き上げてホッとする表情がとてもよい。埋もれていた「過去の関係性」を作品として昇華させた瞬間。こういうのを「満願の表情」っていうのかな。関係性って、そのようにありたいものですね。以上「スタンド・バイ・ミー」で、語ってみました。