自分の「未病」について考えてみた

お題を決めて語るコーナー! 最近、新聞で「水毒」「水邪」という単語をみかけた。東洋医学的な思想を表した言葉だけど、よくよく考えてみると、自分と深く関わることなんですね。ちょっと心に引っかかったので掘り下げてみると、思わぬ「気づき」が待っていた。今回は「自分の『未病』について考えてみた」と題して、ちょっと語ってみたいと思います。まず最初に、Wikiより引用しますね。

水毒(すいどく)、水邪(すいじゃ)とは、中国医学・漢方医学などの中国医学系伝統医学において、体液の偏在が起こった状態、つまり体内の水分の代謝障害(水の滞り、水滞、水気、宿水)が起こった状態を指す用語である。水滞によって病的な浸出液や異常分泌などを起こし、発汗、排尿などにも異変が起こるとされる。今日では一般的に水毒と言われるが、水邪とも言われていた。



私は子供の頃から、汗っかきでのどが渇きやすい性質がありました。もちろん夏は苦手な季節で、部活なんかではいつも、口渇がほとんど恐怖症の域に達していた。軟式テニスをしていたんですが、我ながらよくやっていたと思う。真夏の酷暑日に、コートを走り回るわけです。今考えると、正気の沙汰とは思えません。


現在、双極2型障害という病を背負って、生きています。その関係でリチウム製剤を極量まで服用している。副作用の一例として口渇があります。それに続く、多飲☞多尿。この宿命的な流れは、私にとって「避けることのできない十字架」だと思っています。もともと喉が渇きやすいのに、そこにリチウム極量なんだから。しょうがないじゃん? かくして私は、外来ではいつも500ccのペットボトル二本を必ず脇においています。心電図の読影も、900枚越えると、たいていペットボトル三本は消費します(以前は四本のんだ)。帰宅してからも、専用の500ccタンブラーでお茶をがぶがぶ飲むし、炭酸水も飲む。口渇 ☞ 多飲 ☞ 多尿 という方程式は、生涯わたしを支配することでしょう。

そこへ来て、私の仕事はすべてデスクワークです。ずっと座っている。外来でも、心電図でも。帰宅してからも、パソコン星人の私は、ずっと座りっぱなし。そう、お分かりですよね? 私にとって「体液の過剰、偏在(=水毒)」は、常に念頭に置くべき「未病」なのです。新聞でたまたま「水毒」「水邪」について記されていたので、ようやくそのことに気づくことができた。もともと鈍感な性格で、自分の下肢のむくみなんかも、あまり気にしない。以前、ラフィネというリラクゼーションサロンみたいな所に通っていたとき、女性の店員さんが苦笑されていたのを思い出す。外来後のバンバンにむくんだ足を、リフレクソロジーするわけですから。えらい重労働やな。ああいうところは、俺みたいな「男おいどん」が行っちゃダメですよね(笑)。

2005年から、スポーツジムに通い始めて、上記のラフィネは通うのを止めてしまった。やっぱり、運動すると、肩こりやその他の体の不調は改善しちゃうわけです。現在、有酸素運動として、トレッドミルでの速歩(6.5-6.8km/hr→かなり速いです)で、40分ガンガンに歩く。もちろん、汗ビショビショ。それを週三回。このプロセスって「水毒」という側面から考えると、まさに「体液の過剰、偏在」を是正する行為なんですね。自分の危機管理において、キモになる習慣だったと知って、思わず膝ポンしました。

したがって、ジムでの速歩(格好よくいうと、パワーウォーキング)は、滞りがちな私の体の中の水のフローを、ギリギリの線で守ってくれていたわけです。もともとウォーキングは、単に「なんとなく気持ちいいから」やっていたわけですが、東洋医学的な視点になると、ちょっとしたパラダイム・シフトが起こるんですね。習慣の重みが、ずっと明確になる。「未病」という視点は、中高年の人にとっては、とても大切な考え方だと思います。自分にとっての「未病」はなんだろう?と考えてみるのも、面白いんじゃないかしら。「未病」には、たっぷりとした想像力が必要です。キーワードはずばり、習慣だと思います。「未病」を制する者は、人生の後半戦を制する・・なんちゃってね。まるろぐをご覧のみなさまの、ご健康をお祈りいたします。( ´ ▽ ` )ノ