「不確実性」に、どう対処するか?

今回も「茂木健一郎の脳科学講義」より。これでいったん終了です。まず、次の文章を引用してみる。医療者にとっては、ちょっと「ぐさり」と来るかもです。

生きるということは、確率ではとらえきれない側面を持っている。たとえば「五年後に生存している確率は70パーセントです」というような言い方は、人間をたくさん「アンサンブル」として集めて、そのなかの傾向を論ずる統計的手法としては、十分に機能する。しかし、一人ひとりの生身の人間にとっては、生きるか死ぬかは「0か1か」の絶対的な峻別の問題であり、「70パーセント生きている」という中途半端な状態はありえない。



ここで問題にしたいのは「生きることの不確実性」です。人生とは不確実なものの総体である、と言い切ってもいいくらいだ。「五年生存率」というのは、医師が統計学的に算出した「象徴的な数字」であり、患者さん一人ひとりの個別的な数字ではない。これからの五年間に、何が待ち受けているのか? これは誰にも分からない。だって、それが人生なんだから。


いい大学に入って、いい会社に入って、それで人生は安泰・・そんな時代は、すでに終わった。そんなこと誰でも分かっている。しかし、である。子供のお受験騒ぎ、もっと遡ってデザイナーベビーとか、出生前診断後の中絶とか・・これらは全て、子供の人生にレールをつけようという「残念な親心」である。不確実な現代に至っても、そうした「古典的」ともいえる行動をとる人がいる。個人的には、こうした人達の共通点は「寛容性の欠如」ではないかと思っている。偶然を受け容れる心の構えを持てないのね。

脳が環境と相互作用するうえで、「規則的なこと」と「不規則的なこと」が入り交じった「偶有性」と呼ばれる状況が大切な意味を持つこともわかってきた。他人との会話は、偶有性に満ちている。ある程度は予想がつくし、そこから先は予想がつかない。ある部分は規則的であり、一方で不規則で予測がつかない側面もある現象こそが、脳にとってもっとも興味深い対象であり、そのような状況にさらされることが、脳の「学習」の潜在能力をもっとも引き出すこともわかってきた。



上記の「レールを敷きたがる親たち」は、偶有性の意義を知らない。人は偶有性によって、あるときは経験値を高めるが、あるときは失敗して傷つく。でも大抵は、また偶有性によって立ち直るんだな。そうしてじわじわと経験値が上がっていく。「捨てる神あれば拾う神あり」というけど、まさに人生って、そうなんだと思います。必然を詰め込みすぎた人生は、子供を無力にする。もちろん偶然ばかりの人生は、危険すぎて無理なんだけど・・ 三木清という哲学者がこう言ってる。「もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないだろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないだろう」

人は「不確実性」に、どう対処すればよいか? 論理や経験で予想がある程度できることもあろう。一方で、論理を超えたもの、いまだ経験しないものが、人生に飛び込んで来ることもあろう。うまく言えないけど、やっぱり「カン」だと思うんですよね。この「カン」というやつ、ぜったい確率なんかじゃない。そんな抽象的なものではなく、ずっとリアルなもの、言葉を換えれば「その人のコアからにじみ出る刃」じゃないかと。三木清いわく「断念することをほんとに知っている者のみが、ほんとに希望することができる」と。その人の「刃」が、どれほどの強さと切れ味を持っているか。それが、不確実さに満ちた人生を「切り開く」カギになると思う。最後はちょっと格好つけちゃいました(笑)。以上「茂木健一郎の脳科学講義」で語りました。