クオリアって、なんだろう?

「茂木健一郎の脳科学講義」を読んだ。読後、いくつか心に残る言葉があったので、引用して自分なりに考察してみます。まず最初に、茂木先生がライフワークに挙げておられる「クオリア」について、ちょっと記述しておきます。とても面白いですよ。

クオリアとは、もともとは「質」を意味するラテン語で、現代の脳科学では、私たちが心のなかで感じるユニークな「質感」を指す。(中略)現代の脳科学では、意識のなかで他と区別される形で「これ」とつかみとられるものは、すべてクオリアであると考えられている。心のなかでさまざまなクオリアを感じることができる、ということが、意識の定義であると言ってもよいのである。



クオリアという概念が、一番おもしろく応用されるのが「芸術」なんですね。絵画、音楽、小説・・そうした各々の作品を観て、聴いて、読んで、感じる「何か」がある。例えば、印象派の絵画を考えてみる。印象派は現代においても、すごく人気があるわけだけど、絵画そのものとしては、全然リアルではない、ある意味「乱雑でおおざっぱ」な描き方である。でも・・写実主義にない「何か」を観るものに与えてくれる。その場合に重要なのが「メタ認知」なんですね。印象派の絵画を細部で評価したら、とんでもないことになる。絵画全体を「ちょっと引いて」観ることにより、印象派ならではの味わい(=クオリア)が生じるわけです。


芸術が芸術たるゆえんは、その作品がもつクオリアが、言葉にさえできないということ。もし簡単に言語化できちゃったら、それは凡作ということになる。「ノルウェイの森」にしたって、なんであんなに惹きつけられるのかと考えたとき、各々の部分ももちろん面白いんだけど、やっぱりぜんぶ読み終わって、小説全体に対する「心の揺れ」が残るわけです。それこそが「ノルウェイの森」のクオリア。村上春樹は絶大な人気があるけど、作品に対する評価というのは十人十色だろう。でもひとつ言えるのは、村上文学のクオリアは、たぶん間口が広いんだと思う。その真価はずっと深いところにあるはずだけど、読者の多くが「真価への入り口」までは、容易に到達できる、みたいな。

クオリアをもっと個人的に記述してみる。私は「人間交差点」という漫画をネタに、Blogを書いています。これの原点は「人間交差点」の各作品に対する「あれ?これなんだろう」という違和感なんですね。これまさにクオリアなわけです。学生時代にそれを感じて、でもそれが何なのか、把握できずにいた。つまり「人間交差点」のクオリアは深いんです。掘っていける楽しさがある。Blogで「もどかしさを文章に書き出す」ということをしていると、自分でも意外なくらいに論理展開できたりする。「俺、こんなこと書くつもりなかったのに・・」みたいなことですよ。この「クオリアの記述」で、作品の根本に少しでも迫れる。その一方で、自分の奥深くに潜む意外な志向性が明らかになる。

・・ふと考えてみると、最近の私のBlogは全て「クオリアの記述」という作業になってるような気がする。いや、確かにそうだ。映画や本、音楽、あるいは気になった言葉などの「クオリアを書き出す」作業。近況でさえ「出来事のクオリア」として文章を書いている気がする。なんだろう?俺って、そういう作業が好きなんだな。形のないものに自分なりに形を付与するという作業ね。自分の中の位置づけというか。そういうことに「報酬」を感じている? 我ながら、変な奴です。次回も、茂木さんの本から引用して書いてみます。