自分の「業」について考えてみた(3)

引き続き「アスペルガー(AS)のパートナーのいる女性が知っておくべき22の心得/ルディ・シモン著」より、気になったところを引用して、考えてみる。このシリーズは今回でいちおう終わりにします。

ASには本質的に仏教徒的な面があります。私は、もしかすると仏陀自身ASだったのではなかったかと思ったことがあります。仏教のことを少しでも知っている人なら、教えの根底に一貫する「無執着」の原則を聞いたことがあるはずです。ASの男性との恋愛関係で、女性にとって最も大きなチャレンジは、この「無執着」の実践だと思います。結果に執着しない、期待に執着しない、そして相手に執着しないことです。(中略)「期待がなければ、失望もない」あるASの男性はこう言って、あらゆる人たちにわけへだてなく接することが好きでした。(中略)見方によっては、ユートピア的にも、とてもできそうにないことのようにも思えます。どう受け取るかはあなた次第ですが、彼の考え方に知恵があることは確かです。



シモン先生! それは確かに真理かもしれないけど・・ 女性にとっては「泣きそうな」チャレンジですよ! パートナーにちゃんと「無執着」を施せる女性って、この世にいるのかな? 個人的には「目がくらむほど」のハードルだと思うけど。だって「執着しない」=「愛していない」にならない? こなれた言葉で表現すれば「さっぱりした」女性をめざせということかな。これがなかなか難しいんだけどね。「惚れた男にかまう」ことこそ、女の性(さが)だもんね。それを「無執着」とは・・ なんとせつない。


この「無執着」について反応したのは、つまり私自身が「無執着」だからです。よく言えば「こだわりがない」ということになるけど、悪く言えば「単なる阿呆」なのね。例えば外来では、どんな患者さんがいらしても、例の「おもてなし」の心情で診察にあたります。Twitterを始めて、ようやく世の中の「あるべき偏向」について、気づき始めました。やや! ある医師たちは、生活保護を受けている患者さんに、ネガティブな先入観を持っているぞ。やや! ある医師たちは、救急外来をコンビニ受診する患者さんに対して、辛辣な意見を述べているぞ。そこへ行くと、私なんか阿呆な博愛主義者ですので、やたら「お・も・て・な・し」をしてしまう。10年以上前かな、救急外来を受診したかぜの患者さんに、至れり尽くせりの処方をして、ナースに注意されたことがある。要するに、アホやねん。

わたくしASDの男性からの意見しましては、シモン先生のおっしゃることは、実に本質を突いていると思います。そしてASDの苦悩の核心にせまる指摘だと思います。まさに私がそうなんですが・・ 「他者に何も期待しない」というスタンスは、常にどこかにあります。だからどんな人が受診されても、淡々と「ひとりの患者さん」として丁寧に対応します。これを「誰に対してもやさしい」と捉えるかどうか。チッチッチ、それは違うんだな。問題はそれほど単純じゃない。ASDの人は、自分の「無執着」が侵害されそうになると、とたんに冷淡になります。つまり「やさしさ」と「冷淡」が、コインの裏表の関係になっている。ちょっと矛盾するようですが、ASDの男性の中では、それは確かにひとつなんです。

「無執着が侵害される」って、なんだろう? それは対人関係が濃密になればなるほど、無執着は侵害されるよね。私は再診患者を診るよりも、初診患者を診る方が好きです。関係性が薄い方が楽なんです。そうすると・・家族はどうなるか? ここに根源的な問題がある。一家の長として、家族をずっと愛し続けるという責務がある。ASDの想い描くユートピアは、かなりナイーブです。現実的じゃないのね。いつも「それじゃ、なんで結婚したの?」と問われる。例えば、村上春樹は「あれは天災のようなものだ」と言っているが、俺は天災で済ませれるほど大物ではない。日常で家族に「深くコミットする」ことの反動として、ごくたまに「ユートピアへの逃亡」を夢想したりする。深くかかわることの辛さ。ASDって、人を好きになるときに、どうしてもその宿命を避けることができない。これはまさに苦悩なんですね。村上さんは「無執着」を闘いとれって、言うけどね。

そういえば、ASDに対して「無執着」を実践されている女性を一人知っています。これはもちろん想像ですが、村上陽子さんです。私の睨むところでは、村上春樹はASDであり、まさに「無執着」な性質があると思うのね。陽子夫人は、夫の内なるユートピアを、じっと信じて来られたんじゃないか。まさに「じっと」。愛しているからこそ「無執着」でいる。この矛盾って、深くて困難ですよ。ある意味、地獄だよ、地獄。ASDを代表して、女の人に感謝いたします。敬服いたします。そうして、ASDの我々は、日々「無執着」を闘いとる。結婚生活って・・なんでしょね(←ダグ先生ふうにw)。ふう。以上、三回にわたり「自分の『業』について考えてみた」と題して文章書いてみました。