「正しく」憎み合い「鋭く」対立すること

私は基本的に新聞を読まない。見かねた嫁が「これは読んどきなさい」という感じで、新聞の切り抜きを、毎日いくつか渡してくれる。医療系が多いんだけど、その中にハッとする表現とか引用などあると、捨てずにストックしておく。今回取りあげたいのは、小さなコラム記事。要約すると、下記のようになる。

病気がもとで、家族の絆が深まり、美談が生まれる。その一方で、確実に「メディアが取りあげる価値のない凡庸な話」は、無数に存在する。患者が家族に悪態をつく、家族が患者をなじる。治療法をめぐって意見が対立する。病気のおかげで家族がひとつになるとは限らず、むしろ病気を機に、以前から潜んでいた家族の病理が一気に噴き出すことも珍しくない。患者と家族という関係は、きれいごとでは済まされないのだ。

ここで坂口安吾の「悪妻論」の一節が引用される。これが個人的に「正鵠を射る」感じがあって、うーん、と唸ってしまった。そうして、何か手応えみたいなものを感じたんです。ちょっと書き出してみますね。

夫婦は愛し合うとともに憎み合うのが当然であり、かかる憎しみを怖れてはならぬ。正しく憎み合うがよく、鋭く対立するがよい。



この一文で、めらめらと「悪妻論」への興味が湧いた。安吾は以前から読みたかったけど、こうした短いエッセイなら、とっつきやすいぞ。「悪妻論」は著作権が切れており、青空文庫で読める。引用された文のパラグラフ全体を載っけておきます。

人間性の省察は、夫婦の関係に於ては、いはゞ鬼の目の如きもので、夫婦はいはゞ、弱点、欠点を知りあひ、むしろ欠点に於て関係や対立を深めるやうなものでもある。その対立はぬきさしならぬものとなり、憎しみは深かまり、安き心もない。知性あるところ、夫婦のつながりは、むしろ苦痛が多く、平和は少いものである。然し、かゝる苦痛こそ、まことの人生なのである。苦痛をさけるべきではなく、むしろ、苦痛のより大いなる、より鋭くより深いものを求める方が正しい。夫婦は愛し合ふと共に憎み合ふのが当然であり、かゝる憎しみを怖れてはならぬ。正しく憎み合ふがよく、鋭く対立するがよい。

安吾はまったく正論を述べている。一種の悲観論のようにも聞こえるが、現実とは「楽観がだらだら延長していくもの」ではあり得ない。自我があるところ、戦いは起こる。安吾の言う「知性」とは、自我のことだと思う。安吾は言う「知性は人間性の省察であり、かかる省察のあるところ、思いやり、いたわりも大きく、深くなる」と。

ここでちょっと脱線。「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という対談集より引用したい。いまは亡き河合先生の印象的な発言です。安吾と同じようなことをおっしゃっている。

愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために「井戸掘り」をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです。

「井戸掘り」という玄妙なメタファーが、まるちょうは愛おしいです。安吾は散文として、河合先生はポエムとして夫婦関係を表現する。井戸の底には、目にしたくなかった「汚物」があふれているかもしれない。でも結局のところ、それはお互いさま。夫婦だけでなく、人間同士は究極的にはすべて別の人格です。人と人が助け合って生きていく上で、その「汚れた井戸の底」を認め合うことが、とても大切なんだと思います。

新聞記事は、こう結んでいる。

「正しく」憎み合い、「鋭く」対立すること。私にはこう聞こえる。人間の弱さを認めつつ、本音でぶつかり合え、と。

患者と家族、あるいは夫と妻・・人間同士、深く関われば関わるほど、その人の「ダメな部分」は見えてくる。そして待ち受ける、幻滅、怒り、憎しみ。その場面で、遠慮、軽蔑、無関心が支配すると、人間関係は深まらない。勇気を出して、大切な人にコミットしていくこと。記者はうまく表現されている。「弱さを認めつつ、本音でぶつかり合え」と。結局、この言葉に集約されるんじゃないかしら。これができている人間関係は、長く、深くつづくと思います。いわば「井戸の底で共鳴」することができる。夫婦とはいちばん近い人間関係ゆえに、この要諦は肝に銘じるべきだろう。うん、いい言葉だ。以上、新聞記事をネタに語ってみました。