女という「病」について

お題を決めて語るコーナー! 今回は「女という『病』について」というお題で、ちょっと切り込んでみたい。これ、女性からビンタ食らいそうなタイトルやな・・f(^^;) ま、そう興奮せずに落ち着いて話を聞いて下さい。この挑発的なタイトルを思いついたのは「白痴/ドストエフスキー作」という小説を読んだあとです。ナスターシャ・フィリッポブナという、超美人の女主人公がいる。これがめちゃめちゃ複雑なキャラで、読者にいろんな疑問を投げかけてくるんだな。ホント一筋縄でいかないんです。ドスト氏は、このナスターシャを通じて、読者になにを語りたかったのか? でも、漠然と「女という病」というフレーズは頭に浮かんでいました。昨年10月13日のBlogで、とりあえずの感想を書いたんだけど、ずっとその「女という病」というフレーズが頭の片隅に引っかかっていた。・・で、初春のある日、道を歩いていて、ふとその「病」について、思い当たったのです。すごく難しいテーマですが、頑張って踏み込んでみます。

まず、ナスターシャ・フィリッポブナについて、少し紹介しておきます。自身がかなりの美人であるアデライーダ嬢をして「これほどの美しさは力だわ。(中略) こんな美しさがあれば、世界をひっくり返すことだってできるわ!」と言わしめる。またナスターシャをずっと愛人として囲ってきた、資産家のトーツキー曰く「まったく、男ならだれでも、時としてあんな女に理性も・・何もかも忘れるほど惚れこんでしまうでしょうよ。(中略) まったく、あれほどの性格とあれほどの美貌があれば、どんなことができるか知れないのに!(中略) 磨かれざるダイヤモンド・・私は何度もそう言ったものですよ」と。幼少からの数奇な人生。悪魔的な美と傍若無人なエゴイズム、しかし、ときおり見せる気さくな優しさ、そして宿命的な弱さ。そう、この人は矛盾だらけなんです。でも逆に、その根の深い矛盾が、彼女の「ぞっとするような美」を生み出しているとも言える。

話を戻します。ふと思いついた「女という病」とは? それは「自意識」です。ナスターシャは最終的に、彼女を賛美してやまないロゴージンという男に殺されます。ナイフで胸をひと突き。でも・・個人的には、彼女は自身の「自意識」に殺されたのだと、あえて主張したい。つまり、彼女はロゴージンにそうされて、全く満足だっただろうし、心底安らかだったろう。ロゴージンも、ある種の必然性を感じて、あくまでも「彼女を思い遣って」殺したのだ。愛し、崇拝するがために。

女性の「美」と「自意識」は、密接に関係している。ナスターシャという女は、いわば「自意識の絶頂」なんです。そこへムィシキン公爵という「自意識の薄弱=白痴(idiot)」な男が現れた。二人は宿命的な恋に堕ちます。でも・・考えて下さい。「自意識の絶頂」が「自意識の薄弱」を愛し通すことができるかどうか? おそらく、二人で暮らす中で彼女は彼を軽蔑し始めるでしょう。そのへんにこの小説の「出口のない迷宮」を見ることができると思う。

例えば、女から「自意識」を削除したらどうなるだろう? それはすでに「女ではない」と言ったら怒られるだろうか? でも「自意識」は「女」というアイデンティティに関わるシロモノだろうと思うんですけど。例を挙げましょう。老人ホームの認知症のおばあさんでも、化粧をしてあげると表情が輝き始めると言いますよね。これはたぶん「自意識」を思い出すから。「女」に戻るからじゃないかしら。要するに「自意識」とは、女になるためのスパイスなんだな。

ちょっと心理学的なアプローチを。いろいろ考えたんですけど、自意識って「超自我」に属すると思うんです。超自我には「理想」「法廷」「良心」というみっつの機能がある。これにより、自我を統制、監視して「正しい方向へ導く」というわけです。自分を理想化しようとする力・・これまさに「自意識」ですよね。女性にとって一番の悩みは「加齢」じゃないだろうか。年とともに「美」はどんなに抵抗しても失われる。そこで老いて醜くなった自分をこきおろす残酷さも、超自我は持っている。つまり「法廷」として。ずばり「自意識」は、諸刃の剣なのです。

自意識という「危険物」をコントロールできるか? この「魔物」は、女を美しくする ☞「私はなんて美しいんだろう・・うっとり」 その一方で「私はなんて醜いんだろう・・がっかり」☞ 女を落胆させる。そう、この魔物は女を振り回して疲れ果てさせる。恍惚と幻滅の繰り返し。自意識あるところに、常に内なる葛藤とイライラ、そして対外的な戦争あり。ある年齢になれば「いかに自意識を手放せるか」が、女性の課題なのかもしれない。

小説に戻って・・ 無意識の中でナスターシャは、ムィシキン公爵とは結ばれる運命ではないと悟っていたと思う。でもムィシキン公爵は他の誰にも(アグラーヤ嬢とか)渡すものかと。それは彼女の自意識(プライド)が断固として許さない。結局のところ、彼女の「自意識という法廷(警察)」が、彼女自身をずたずたに切り刻んだんだな。ロゴージンは、万事悟っていた。そうして、彼女を楽にさせてやった(刺殺)。死んで「自意識という地獄」から解放された彼女は、ある意味「幸福だった」に違いない。そう、地獄のような葛藤から解放されて、ようやくナスターシャは平和と安楽を得たのである。

結語。女という病とは「自意識」のことである。それは「女」という存在と一体となっており、すべての女性はそこから逃れることはできない。ドスト氏は、それが「死に至る病」にもなり得る、と言いたかったんじゃないかしら。賢明に生きるためには、人生のある時点で、その「危険物としての自意識」との距離をおく必要がでてくる。その好例として、原節子という女優を挙げておきたい。奇しくも「白痴/黒澤明監督」にて、ナスターシャ・フィリッポブナに相当する役を演じている。彼女は現在93歳。ひとつだけ想像できるのは、今、原さんは平和で安楽なんだと思います。以上「女という『病』について」というお題で語ってみました。