ポリティカル・コレクトネスについて考える

「言葉からインスパイア」のコーナー! 今回は「ポリティカル・コレクトネス(political correctness 以下、PC)」という単語を取り上げてみたい。これ、以前から少しは知っていたんだけど、最近になって意外な拡がりを感じたので、自分なりにまとめてみたい。え、耳慣れない言葉ですか? いや実は、この言葉はすでに社会の底流にあって、われわれ一般市民を密かに動かしている言葉なんです。Wikiから引用してみます。

言葉や用語に社会的な差別・偏見が含まれていない公平さのこと。職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現、およびその概念を指す。

1980年代のアメリカ合衆国で始まり、2000年前後に日本にも定着した。「政治的な観点からみて正しい用語を使う」という意味です。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」という運動。社会にはびこる差別を是正しようという、大きな動きでもある。主なものを挙げておきます。

看護婦、看護士看護師
障害者障がい者
スチュワーデス客室乗務員
トルコ風呂ソープランド
痴呆症認知症
精神分裂病統合失調症


さて、最近このPCに関して、興味深い事件がありました。例の「佐村河内守氏のゴーストライター事件」です。多くのリスナーが、全聾の作曲家、現代の奇跡として、感銘を受けていた。メディアもこぞって取りあげる。「~魂の旋律~音を失った作曲家(NHK)」「現代のベートーベン(TIME誌)」等々。しかし・・彼には新垣隆氏という黒子がいて、ほとんどの作曲を新垣氏が行っていた。さらに佐村河内氏は、実は聴覚があるというのが、最近の定説のようだ。すべては、手の込んだ虚構だったというわけ。

ここで、PCについて考えてみます。佐村河内氏が「全聾」でなければ、彼の代表曲「交響曲第1番《HIROSHIMA》」は、あれだけのセールスがあっただろうか? クラシックの交響曲(それも相当に長いらしい)が、10万枚以上も売れるというのは、まさに異例である。この現象には明らかに「弱者だから、助けてあげたい、認めてあげたい、力になりたい」という心理が働いている。これは個人的な推測だけど、純粋に「交響曲第1番《HIROSHIMA》」という音楽を味わおうとしてCDを買ったリスナーは、少数派じゃないかと。

差別・偏見を防ぐ、是正するという動きは素晴らしい。でも社会的弱者を「過度に庇護」するのは、逆な意味で差別なのです。上記の佐村河内氏の事件には「弱者への過度な思い入れ、肩入れ」が見え隠れする。本当に「交響曲第1番《HIROSHIMA》」という音楽が好きな人なら、この事件後もCDはブックオフ行きにはならないでしょう。でも現実は、ほとんどのCDがリスナーから手放されることでしょう。ほろ苦い反省とともに。

この事件は「歪んだPC」をメディアが煽ったという構造になると思います。私自身、音楽というフィールドでPCを挟み込むつもりはありません。自分にとって楽しくなければ、音楽なんてほとんど価値がないし。そうした中で、知的障害のある大江光の音楽は、私にとって不思議な位置にある。いわば「手放すことのできない音楽」なんだな(☞ こちら参照)。彼の第三作「新しい大江光」のライナーノーツに、父の大江健三郎氏がおおまかにこう書いている。「これまでの光の作品もPC的な評価を受けていたのだろうか。PCの庇護の下でなく、一人の音楽家として世の中に受け入れられたのだと信じたい」と、複雑な親心が記されている。

私にとって大江光の音楽は・・ 例えばモーツァルトは「精神を励起して集中力、注意力を高めて、作業の精度、スピードを上げる」という役目があります。それに対して大江光は「疲弊した精神を優しく刺激して、停滞した気分を次第に上向きにさせる」という役目があります。つまり、どちらも極めて「実用的に」聴いているということね。したがってそこには、PCの入り込む余地は少しも無いわけです。

最後に。昔「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」という川柳が流行りました。「みんながやっているからやる」というのは、ずばり思考停止です。ノイズを避けて、おのれの「心の声」に耳を傾けよう。答えはそこから導かれます。メディアというのは、ある場合には、ひどいノイズとなり得る。

そして、たとえ社会的弱者でも、憲法で言う「公共の福祉」に反することをしたら、ちゃんとたしなめることが必要です。あるいは、他人の迷惑にならないようにどうすればいいか、一緒に考えること。それが公平ということです。公平に生きるって、難しいな~ 以上「ポリティカル・コレクトネス」について、文章書いてみました。