スワロウテイル/岩井俊二監督(2)

前回に引き続き「スワロウテイル/岩井俊二監督」で文章書きます。個人的に本作の核心は、アゲハ(伊藤歩)が胸にアゲハチョウの刺青を入れるシーンだと思っている。15年くらい前に観たあと、ストーリーとかはあらかた忘れていたけど、この部分だけは頭にこびりついていた。それほど鮮烈で印象的なシーン。VHSにはなかった(と思う)特典映像を今回見たんだけど、どれほどこのシーンに濃密な映像のテクニックが注ぎ込まれていたかを知って、愕然となった。

刺青って、どういう時に入れるのかな? やはり心が痛い時じゃないだろうか。泣きそうに心が痛くて、それを肉体的に刻み込みたい時に、人は刺青を彫る。それは怒りであり、悲しみであり、何より「自分という存在を変えたい」と願うから、刺青を彫るのだ。アゲハは冒頭に母を亡くして「人に言われるまま生きる」ような、ぼんやりした子だった。意志の光の弱い子というか。でも転機になったのは、フェイホンの裏切りによりイェンタウン・クラブ(ライブ)が解散してしまったこと。イェンタウン・クラブは、アゲハにとっては「夢」だった。こわれた夢を、もう一度カネで買い戻す決断をする。自ら悪に手を染めて・・

グリコ(Chara)は胸の蝶の刺青を「あたしのIDカード」と表現していた。つまり「あたしがあたしである証」というわけね。アゲハが刻んだ刺青も、同様の意味合いがあると思う。つまり「大勢の中の一人」ではなく、自分がアゲハという「無二の存在」という主張だね。言い換えると、子供から大人への第一歩という意味になるだろうか。子供は「悪」という炎を吞み込むことにより、大人へと成長していく。刺青を刻んだあとのアゲハの眼差しは、がぜん鋭くなる。伊藤歩の素晴らしい演技。

「核心となるシーン」を載っけておきます。彫師(医師でもある)はミッキー・カーチスが演じている。全体にセピア色で、小林武史の音楽が絶品。このアゲハの回想シーン・・なんだろう、すごく切なくて胸がざわついて、ヒリヒリした心もちになる。ちょっと文章化してみました。



トイレで一人遊びする少女。お母さんは仕事中だから、呼んではいけない約束。母の仕事は男に体を売ること。トイレにふと美しいアゲハチョウが現れる。その綺麗さに息をのむ少女。お母さんにそれを伝えたくて「お母さん、お母さん!」と呼ぶけど、どうしても声が届かない。別室で男に激しく抱かれる母。蝶を捕まえようとする少女。でも、蝶は高いところをはためくので、捕まえられない。やがて蝶は、窓の外へ出て行こうとする。逃がすまいと窓を閉める少女。しかし、蝶は窓戸につぶされてしまう。その羽がひらひらと少女の胸のうえに落ちてくる。

・・いつしか、アゲハは泣いている。その涙を優しくふいてやる彫師。

「これ、あたしの記憶? あれは、ほんとにあたしだったの?」
「どっちがだい? 蝶を見ていた女の子かい?
それともつぶされちまった蝶の方かい?」

この回想シーンは、少女時代の傷、痛み、孤独などを象徴している。母を呼んでも自分の声が届かない。愛されていないことへの不安。そこへ現れた一羽の美しいアゲハチョウは、少女にとって儚い「希望」だったんじゃないか? でも、自分の手で潰してしまう。微かに残る罪の意識。

このシーンを、いちいち意味づけしようとしたら、ホントきりがない。パニックに陥る。いわば「象徴のるつぼ」と言えるかもしれない。それほど多義性に満ちあふれたシーンだと思う。だから敢えてこう言う「Don’t think, FEEL!」と。監督も「理屈ではなく、感じてほしい」と思っておられるはず。観る者の心の奥底にある古い感情が、刺激されて意識の中に蘇る。小さい頃に抑圧され、今では埃をかぶった感情たち・・痛み、不安、傷、罪。だから、この短いシーンを観ただけで、若干のアイデンティティの揺らぎが起こるんだと思う。まさに映像の魔術。

さて、このシーン。DVD特典映像をみて、思わず唸ってしまった。上記の回想シーンのアゲハチョウは、全部CGなのね。岩井監督の絵コンテから始まって、CGディレクターの原田大三郎氏が、緻密で膨大な作業を経て、美しいアゲハチョウを完成させた。本作のタイトルが「スワロウテイル(アゲハ)」なる所以である。岩井監督曰く「CGを使っていることが話題にならないような映画にするのが目標です」と。まさにその通りになった! 心血を注いだ部分に、あえて執着しない、この貪欲さ、潔さ。岩井監督のスケールの大きさだと思います。ため息。

以上、ややとりとめなくなりましたが、二回にわたり「スワロウテイル/岩井俊二監督」について語りました。