セックスとジェンダーについての考察

お題を決めて語るコーナー! 今回は突然ですが「セックスとジェンダーについての考察」というお題で書いてみます。若干長くなりました、あしからず。私は心理学者の河合隼雄先生が好きで、いくつか本を持っている。その中で「こころの声を聴く」という対話集があるのね。10人との対話(村上春樹含む)が収録されている。個人的に一番「あっ」と思ったのが、富岡多恵子という文学者との往復書簡を掲載した「『性別という神話』について」という項目なんですね。古典で「とりかへばや物語」というのがある。ざっとあらすじを記す。

主人公は女と男のきょうだい。生まれつきの性格が入れ代わっていて、娘の方は男として、息子の方は女として育てられ成人する。姉は男装して朝廷に出仕し、その「美しさ」で多くの女性を魅了する。遂には結婚までしてしまう。そこへ色好みの中将が現れ、中将は「姉」の奥方と通じるのみならず、続いて姉その人とも結ばれて、姉は妊娠してしまう。

一方「弟」は女性として、東宮(女)に仕えるが、ここでも弟が本性を発揮して東宮と結ばれ、東宮は妊娠してしまう。このような大混乱の中で、姉と弟は容姿が似ていた点を生かし、うまく入れ代わり、めでたしめでたしの結末を迎える。



河合先生は、ここで何を問題提起されているか。曰く「男と女という変更し難い絶対的な分類を相対化してみせてくれ(中略)、女が男やっても、男が女やっても、こんなにできるものだぞ、と言っている。(中略)男女の愛も同性愛的なものと異性愛的なものとが、入り混じったり、入れ代わったりしてゆくことによって、その深さを増すのではないか」と。

河合先生と富岡さんの間で、一番の話題は「セックス(生物学的性別)とジェンダー(社会的性別)の違いは、どのようにして生まれたか?」ということ。言いかえると「男らしさ、女らしさって、なんで要求されるんだろう?」ということね。河合先生の言葉をちょっと引用します。

(前略)人間がジェンダーを「つくり出さざるをえない」のは、人間の意識の本質にかかわっているように思います。人間の意識は二分法によって確立されるようです。混沌を光と闇に分けること、天と地に分けること。このような「二分法」をどんどん行って、その組み合わせによってシステムをつくりあげてゆくことが、意識の発展につながります。(中略)このとき、二分法のひとつとしての男と女、ということが多くの文化のなかで取りあげられ、ジェンダーをつくりあげます。(中略)この分類は極めて強力で、逆に人間の在り様を縛ってしまって、それぞれの文化のもつ「男らしさ」「女らしさ」のイメージを固定させ、それを実在の男、女、という「人間」に押し付けます。そのようにシステムをつくると、人間世界のことを操作したりするのに便利だからです。



ここからは私見です。今、想起しているのは、村上春樹エルサレム賞スピーチです。例の「壁と卵」をメタファーとする文章ね。「卵」は個人です。おのおのの個人は弱いので、力を合わせて組織をつくる。組織をつくればルールや秩序が必要になる。そうして、ほぼ必然的にシステムが構築される。「男らしさ」「女らしさ」というのは、そうした中の、あくまでも便宜上の二分法であり、システムが巨大化していくうちに、その相対的な分類は疑いようのない既成事実になってしまう。しかしである。実存的な人間においては、男性の中にも「女」が、女性の中にも「男」が棲んでいる。つまり人間って、そんなに簡単じゃないのね。もっと乱雑で気まぐれで脆弱な存在なんですよ。仮想の「男らしさ」「女らしさ」という物差しが、ふぞろいな人間を箱詰めにし、綺麗に整理してアウトプットしていく。残酷で清潔な生産がえんえんと続く。そのプロセスで、実存の人間はバランスを失い、次第に壊れていく。そう、壁(=システム)が卵(=個人)の脆い殻に穴をあけはじめるのだ。

卵たる我らは、じゃあどうすればいいのか? システムを避けて生きる? それは不可能だ。仙人や乞食として生きるなら別だけど、それは常識的な生き方ではない。つまり結局、人は独りでは生きていけないから。特に高みに登ろうとする人は「システムからの要求」を、次から次へと呑まなければならない。でも人間って、しょせん有限な存在だからね。どこかで「ガス抜き」をしないと、破綻は目に見えている。

富岡さんは、その方法論として「芸術」を挙げている。「ボレロ」という舞踏の中で、男性の踊り手が次第に「彼」でも「彼女」でもない実在・・エロス(=生命力)そのものになっていくと述べている。それを観た富岡さんは「二分法をカキマゼル」ように感じられたと。「カキマゼル」とは、システムの「冷徹な暴力」に対する「悪戯」だと思う。いたずらすることにより、不完全な人間の魂は慰められ、カタルシスを味わうことができる。これは冒頭の「とりかへばや物語」も全く同じこと。ある意味「性の倒錯」を描いているわけだけど、ちゃんと「カキマゼル」面白味が、ちゃんと表現されている。グロテスクの一歩手前で、ちゃんと「悪戯」になっている。

総括。「カキマゼル」は、例の「Stay foolish」と同じことです。社会は「愚劣さ」を排除したいと思う。それはもっともなことだけど、ある程度は「愚劣さ」に寛容であるべきだと思います。だって、究極的には愚劣でない人間なんていないですよ。システムの上部にいる人間は、単に「愚劣さを隠すのがうまい」だけです。それが大人ということです。システムの末端にいるまるちょうとしては、人生の後半に入ってもどんどん「カキマゼテ」生きていきたいと思っています。最後はちょっと論点がずれちゃいましたが、以上お題を決めて語るコーナーでした。