男に「隠れ家」は必要なのか?

今月中旬から体調が非常に悪く、各方面に迷惑をかけました。すみません。喩えるならば「疾走する地獄の馬」に引きずられて、もがき苦しんでいた・・そんな感じ。21日にようやく「ひとやま越えた」のですが、「すでに21日」という事実がうまく吞み込めなかった。頭の中では六月の上旬で時間が止っていたのだ。閉塞感は、時間感覚を麻痺させる。そう、私は「閉塞感」という魔物に、心を蝕まれていました。一番ひどかったのが16日。午前中はK診療所で健診外来。帰宅後にうつの徴候である長い昼寝。その後18時頃に起きてくるも、今度は躁状態。私は絶望的な閉塞感に包まれて、やる方ない怒りに震えていた。その「仁義なき怒り」の餌食になったのは、わが家の妻と息子。ご愁傷様です。美味しそうに焼き上がった餃子の列さえも、私を幻滅させ、無慈悲にさせた。

餃子を少し食べて、私は宣言した「今夜はこの家で寝たくない。どこかのホテルに泊まってくる!そうでもせんと、やってられん!」と。その時の表情は、たぶん赤茶けた般若みたいだっただろう。実はこうしたことは二度目なんです。私の事情を知り尽くしている妻は、落ち着き払って私を見送ってくれた。私は「見送んな、クソが!」というやけっぱちな心境だったが、脊髄反射で手は振っていた(笑)。そうして南草津のホテルにチェックインして、独りの時間と空間を手に入れる。それからしばらくして・・その怒りや混迷がほぐれてきたのね。次第に頭の中が整理できてくる。これはすごく不思議な体験だった。そこに一泊して、全快とは行かないまでも、絶望的な状況からは脱出できた。前振りが非常に長くなりました。今回は「男に『隠れ家』は必要なのか?」と題して、文章書いてみようと思います。


よくオヤジ系の雑誌に「男の隠れ家特集」とか、あるよね。ああいうの、私には無縁だと思っていた。私という人間は、ルーチンを大切にする種族です。出勤して、仕事が終わったら、直で帰ってくる。もちろん、双極性障害という病気を持っている関係もある。実際のところ、仕事が終わったらヘトヘトなわけです。遊ぶどころじゃない。でも、そうした「一見単調な毎日」でも、それほど不満はない。・・でもそんな私が、今回は「隠れ家の効用」を実感したわけね。

隠れ家の効用とは、つまり「デトックス」である。毒を多く持っている人は、隠れ家が必要なのかもしれない。別な言い方をすれば「逃避」かな。「夫」や「父」という肩書きからの逃避。これは一見、男らしくない気もするけど・・ でもちょっと考えて欲しい。男は「夫」や「父」である前に「一個人」なのだ。そう、隠れ家とは「男が一個人に戻る場所」と定義できるかもしれない。

「逃避」は人間に必要だと思う。それを「恥」だと見なす人は、いつか生命の危険が来たとき、ちゃんと対応できるだろうか? 生き延びるのは「逃避」を是とする人たちだ。もちろん「飲む、打つ、買う」の世界に入り浸ると困るんだけど・・ それは「逃避のための逃避」になっちゃってるね。あくまでも「生産のための逃避」であるべきだと思う。いったんレールから外れて、またレールに戻ってくる、みたいな。

話を戻して「一個人に戻る」ということは、つまり「自分の社会性を棄てる」ということ。16日の私には、まさにそうした危険な衝動(タナトス)があった。つまり「蒸発」ね。男性には、無意識の奥深いところに「何もかも棄てて、独りになって生きたい」という欲求があるのかもしれない。だから、雑誌の安逸な「隠れ家特集」なんてのは、そうした根源的なオスの欲求を「ガス抜き」するマーケティングがあるのかもしれない。

結論。男に隠れ家は必要である。「隠れ家」は、べつに洒落た旅館やお茶屋でなくてよい。一個人をさらけ出せる時間と空間があれば、それで十分なのである。「社会性からの逃避」が実現できるなら、究極的には場所は選ばないわけです。だから、自分にとっての「隠れ家の開拓」は、各々の男性が試行錯誤でやるべきである。メディアの提案に踊らされてはならない。

ああ、そうか。長々書いてきて、俺、悟りました。俺という一個人は、自宅で自由気ままにやらせてもらってます。嫁と息子に日々、白い目で見られながら、自分の社会性をほいほい脱いでいる。よく言えば、マイペース。悪く言えば、恥知らず。その証拠に、嫁も息子も、私だけには診察されたくないと言います(笑)。したがって、私の隠れ家は他でもない「自宅」なのでした。ありがとうございます(笑)。16日の出来事は、あくまでも緊急避難的な行動だったと思います。文章書いて、自分なりに納得できました。以上「男に『隠れ家』は必要なのか?」と題して、文章書いてみました。