「血」・・人間交差点より

blood2漫画でBlogのコーナー! いつものように、まるちょうお気に入りの短編漫画をネタに、ちょっと文章書いてみたい。今回は「人間交差点/矢島正雄作 弘兼憲史画」より「血」という作品をチョイス。まずあらすじから。若干、込み入ったテーマです。

「ボク」は平凡で幸せな四人家族の父。年並としては30代半ば、お腹も出てきている。ある日、ちょっとした事件が起きる。小学低学年の裕太曰く「学校で血液型を習ったけど、僕はお父さんの子どもじゃないの?」と。裕太の血液型はO型、「ボク」はAB型。科学的には、ほぼあり得ない組み合わせ。妻に内緒でクリニックを受診しても「まぁ、絶対と言っていいでしょう、あり得ません」と。「ご主人以外の男性との間の子供を産んでしまっていることを、お母さん自体が気づいていない場合がほとんど」との医師の説明。「自分の子供だと信じ込んでいたこの息子は、ボクの子供ではない」・・なんという衝撃。blood3

しかし、この件はもうひとつの真実も浮かび上がらせた。つまり自分が父の息子ではないということ。つまり、今は亡き父の血液型はO型で「ボク」はAB型なのだ。これもあり得ない組み合わせ。ボクは以下のように父を述懐する。


ボクの父は成りあがりものだった。弱冠十代で土建屋を始め、時代の波に乗って大金を稼いだ典型的な成り金だったという。ボクは小さい時から、父の生き方に否定的だった。blood4ある時、学校から帰ると、部屋で父が女中とまぐわっていて、まさに挿入している最中。父はまったく悪びれることなく「おう、帰ったか!! 今おやつ作らせるから、ちょっと待ってろ。すぐすませるからな、ガハハハ」と、まぐわいを止めようともしない。ボクが高校時代にめぐり会った書物の中に、父とまったく同じ人物を発見した時の驚きは相当だった。それはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に登場する、餓鬼のように、欲望のおもむくままに生きる父の姿だった。そして、その父もボクが大学生の時に死んだ。正直、父が死んだ時に悲しさはなかった。この男から逃れられるという安堵感のみがあった。

父への嫌悪感が、ボクを若い時期の結婚に踏み切らせた。安定した小市民的な家庭生活への憧れ。そしてそう考えていたボクに、最もふさわしい女を選んだつもりだった。blood6苦悩するボクが出した結論とは・・ 風呂に入りながら、ボクは裕太に告げる。「決まってるじゃないか、おまえは正真正銘父さんの息子だよ。バカな疑いを持つなよ」と。「おまえの体をよく見てみろよ、父さんの体にそっくりじゃないか。気が小さい性格も成績がいつも中途半端なのも、何から何まで父さんそっくりだぞ」。そしてふと自分の父も、ボクが血のつながった子供でないことを知っていたことを確信する。そうして、あれほど嫌悪していた父のことを、少しは理解でき、許せたような気がした。同じ「父」という立場にいる人間として。


この短編を読むと、まるちょうは不思議な感動に包まれる。今回この文章を書くにあたり、その「不思議さ」を分析したかった。blood5血のつながっていない息子・・この現実をどう受け止めるか。主人公の「ボク」は、息子と一緒に風呂に入りながら「おまえは俺の息子だ」と優しく、しかし毅然とした態度で肯定する。心の中で、一抹のわびしさを抱えつつもだ。なぜ間違っているのに肯定するのか? ひとつには自己肯定としての意味合い。つまり今の妻と結婚して、家庭を築いてきた自分を「間違っていない」と肯定するため。もうひとつは、血のつながっていない裕太のアイデンティティを肯定してやる意味合い。実のところ、今回の事件はすべて「大人の事情」に依る。幼い裕太に毫も責任はない。つまり大人の責務として、子供の出自を確定してやること。たとえそれが嘘八百だとしても、それで裕太は救われるのだから。まさに「噓も方便」という奴ですな。父として当然の務めであり、ある意味「矜持」でもあった。

blood8主人公の今は亡き父は、その「矜持」をしかと持った人だったと思う。餓鬼のように生きた父だったが、血のつながらないボクに対しては、母が若くして死んだ後も優しかった。ボクは父を嫌悪したけど、憎んだことはなかったのだ。ここにも「父としての毅然とした肯定」があると思う。「人生苦しくてあたりまえ」というのが、亡き父の口ぐせだった。欲望のおもむくままに生きているようで、その実「大人としての痛み」を抱えていたのだ。

結局、三代にわたり血のつながらない父子。しかし主人公の理路の中で、この三代の父子はしかとつながった。もちろん、科学的にではない。唯物論を持ち出したら、この三人は各々他人です。まるちょう的にblood1は、科学なんてクソ喰らえですわ。形而上的な系譜、けっこうじゃないですか。真実なんて要らんのですわ。もっと大切なものが、この世にはある。あるいは、絆を切ってしまうという選択肢もあるかもしれない。しかし、そうした「タナトス」からは何も生まれないというのが、まるちょうの持論です。タナトスは結局あきらめに過ぎない。主人公の最後の言葉を載っけておく。

ボクは父のようには生きないだろうな。たぶん父ほどの才覚もないし、エネルギーもない。時代も違うし価値観も違う。ただ大人になった息子に、ふと思い出してもらえたら充分だ・・ どうしようもない親父だったが、とびきり優しい父親だったと。

まるちょうも将来、わが息子にふと思い出してもらえたら、それでいいと思っています。以上、漫画でBlogのコーナーでした。