初恋のきた道/チャン・イーモウ監督

「初恋のきた道」(チャン・イーモウ監督)を観た。本作を観るのは、今回で三回目になるんだけど、涙が出て仕方なかった。Blog用に分析的に観ようと思ったら、返り討ちの巻(笑)。シンプルな構成だと思うんだけど、何がそれほどに感動させるのか。文章を書くことにより、自分なりに本作の核心に迫ってみたい。

最初に、タイトルについて少し考察。原題は「我的父親母親」である。英題が「The Road Home」。三度観て、監督の意図に一番近いのが、やはり原題だと感じた。つまり本作では、親子の絆という視点を外してはならないのね。主演のチャン・ツィイーの可憐さは、筆舌に尽くし難い。これは認める。しかし本作の凄いところは、テーマとして描かれる「もっと大きな何か」を感じさせること。実際、2000年に映画館で観たときは、上記の可憐さしか頭に残らなかった。ぼんやりと「良作だな~」と思うくらいで、その深みには頭が至らなかった。あれから12年経過して、チャン・イーモウ監督が伝えたかったと思われる「何か」を、なんとか分析してみたいと思います。とりあえず、次の二点を軸に。

#1 チャン・ツィイーの可憐さ

#2 愛の永遠性について


まず#1から。ややこしいことは言わない。本作のチャン・ツィイーの可憐さは、尋常ではない。でも、三回観て思うんだけど、この「可憐さ」も、かなり監督の演出が入っていると推測する。大草原を走る、あの素朴で無心で愛らしい姿。でも、素顔のチャンは、あれほど幼くはないはず。走るときの手の振り方とか、足の動かし方とか、相当に演出が入っていると、まるちょうは睨みます。むしろ、その監督の指示をしっかり叩き込んで、役作りに徹したチャンを褒めてあげたい。チャンの可愛らしい顔のアップ描写が多いのは、いわゆる「技が決まった」という奴だ。有能な監督は、使える武器はためらないなく使う。あのチャンの可憐さという一種の「引力」でもって、視聴者を作品の中へ引きずり込んでいく。いわば「作品への入り口」なわけね。

さて、#2である。こちらが真打ち。本作のストーリーテラーは、現在に生きる息子である。息子が、40年前の父と母の清冽な恋愛を朴訥と語る。描かれるのは、ずばり「恋の始まり」だな。だからこそ、カラーで表現され、若き日の母(チャン)の姿とか、大自然のおおらかさ、清々しさ、厳しさ、その他、素晴らしく美しい映像である。それに対して、現在はモノクロである。急死した父。そして老いた母。時間というのは情け容赦ないね。あんなに美しく、切なく、激しく燃えた恋の哀しい終焉。そう「モノクロの現在」で描かれるのは「恋の終わり」もっと言えば「老いと死」なんです。

なんて尻すぼみな映画だって? とんでもない。チャン・イーモウ監督の主張は、この「老いと死を主題とする現在」でこそ、明らかになる。息子と母は、父が死んでもちろん悲しみにくれる。父は村の教育について、40年間脇目も振らず取り組んできた。よく通る声で生徒に読み聴かせる。母はこの澄んだ声が、授業が、そして小さな校舎が大好きだった。母は文盲だった。だからこそ、教育者としての父を生涯愛し続けたのだ。それは一種の「憧憬」と言っていいかもしれない。

「現在」の父は、直截的には描かれない。町で急死して、そこから村へ棺を担がれて「初恋のきた道」を帰る。トラクターで運んだら、たった半日の道のりを、多くの人手でもって担ぐ。母はそうしないと気が済まなかったのだ。それは母にとって、愛する夫へのせめてもの弔いだった。当初、人手不足が予測されたが、想定外に父の教え子が中国各地から100人以上も集まる。そのことは、間接的に「父の存在の大きさ」を物語っている。

ラストシーンは涙なしには観れない。いつも泣いてしまう。息子が、父のため母のために、一時間だけ生徒を集めて授業する。よく響く声で、読み聴かせる。その声を聴いて、思わず校舎へ歩み寄る母。その輝くまなざし。その心は40年前の、あの「清冽な恋」と同じなのだ。母は何よりも父の「教職に身を捧げる」という崇高な精神性を愛していた。つまり、形而上的な愛なのね。だから、父の肉体は滅んでも、その愛はずっと生き続ける。そうした「祈り」が、このラストシーンには込められていると思う。



人は誰でも、純粋な理想を心に持っている。でも現実の生活では、そうした理想は「絵空事」となり、いつしか忘れ去られる運命にある。しかし、本作のような「純粋な理想は、ちゃんとあっていいんだよ」と言ってくれる映画は、貴重だと思うのね。だって、心の中に埋もれている「かつて自分が憧れた理想」を、再び意識させてくれるから。本作を観終わった後に訪れる一種独特な爽快感は、そうした「昔の純粋な自分」を思い出させるからだと思う。

以上、映画「初恋のきた道」について、語りました。