めぐり逢えたら/ノーラ・エフロン監督

「めぐり逢えたら」(ノーラ・エフロン監督)を観た。



これを観るのは三回目くらいだろうか? 最初は1993年の研修医二年目の頃。確かクリスマスに近い頃で、カップルでやたらごった返す中をかき分けて、劇場内をさまよった記憶がある。今思うと、そうした幾ばくかの寂寥を感じつつ、本作の「良質の薫り」を感じ取っていた。テイストとしては「軽妙なラブ・コメディー」なんだけど、扱っているテーマは真剣そのもの。つまり、軽いだけで終わっていない。ちゃんと観た後に「これって、なんだろう?」と考えさせる影響力を持っている。本作の見どころは、たくさんある。まず、音楽がとてもよい。古いスタンダードが極めて効果的に使われている。そして、ジョナ役のロス・マリンジャーの可愛らしさも特筆もの。子供好きが観たら、とろけてしまうこと間違いなし。あと、主人公アニー(メグ・ライアン)と女ともだちのベッキーの関係も味がある。いわゆるガールズ・トーク炸裂、女同士の友情をリアルに描いてあり、笑えてうなずける。ただ、Blogを書くにあたり、論点をひとつに絞ってみたい。つまり・・

運命の人は、この世にいるのか?


本作のメイン・テーマは、ずばりこれだ。これについて考え始めると、きりがない。でも、本作はひとつの結論をちゃんと出している。つまり「イエス」と。

アニーとウォルターは結婚を控えたカップルで、一見幸せそうに見える。冒頭にアニーの親族への婚約の報告の場面があるけど、ノーラ・エフロン監督は、こうした何気ないシーンにも、ちゃんと伏線をしのばせている。つまり「アニーとウォルターは運命のカップルではない」ことを証明する一種の仕掛けだ。注目すべきは、アニーの言葉の多さ。あるいは、大げさな動作。

アニーと最終的に結ばれるサム(トム・ハンクス)との関係の中には、言葉は極めて少ない。ノーラ・エフロン監督は、おそらくこの「言葉数の少なさ」を意識して、脚本を書いたと思う。そう、「運命の絆」はとても本能的であり、理屈でないのね。ラストのエンパイア・ステート・ビルの観覧階での二人は、主にアイ・コンタクトで意思疎通する。お互いの瞳をじっと合わせて、静かに見つめ合う。言葉なんて要らない。



“We’d better go….shall we?”

科白らしい科白って、サムのこの一言くらいだ。ほとんど全てが、非言語的な意思表示である。あれほどばたついていた話の展開が、ここに来て、すっと落ち着く。まさに「収まるべき鞘に収まる」かのように。トム・ハンクスとメグ・ライアンの「非言語的な演技」は秀逸である。目で演技できる役者さんって、すごいな~と思う。このラスト・シーンに重なる音楽が、狙いすましたように、視聴者の心を鷲掴みにする。一節をまるちょうが和訳しました。素敵なフレーズです。

Make Someone Happy/Jimmy Durante

Where’s the real stuff in life?

To cling to

Love is the answer

Someone to love is the answer

Once you’ve found her

Build your world around her

生きていく中で、真実はどこにあるんだい?

愛を決して離さないこと

誰かを愛することこそが、その答え

もし運命の彼女にめぐり逢えたら、

彼女の周りにきみの世界を築こう

このラストで醸し出される、完成された雰囲気が素晴らしい。すごい説得力。「運命の人は、この世にいる」でいいじゃないかって、思っちゃうもん。監督による「マジック」が視聴者に施された瞬間だ。

実際「運命の人が、この世にいるか?」という問題は、現実的に考えるととても困難である。サムとアニーのように「二人が同時にピンと来る」という現象は、そうそう起こるものではない。もし仮に同時に「ピンと」来ても、相手が既婚だったり、ろくでもない親族がいたり、経済力が全くなかったり・・現実に起こりうる「障壁」は、枚挙にいとまが無い。現実的に考えちゃうと、あっという間に否定や虚無に向かってしまう。暗い・・( -_-)

でも本作を観て、一瞬でも「運命の人が、本当はいるのかも?」と思えたら、それはそれでいいんじゃないの? ノーラ・エフロン監督は、確かにマジックをかけた。それを「儚い一瞬の変化」として浅く捉えるか、「運命の人が確かにいるはず・・」と、強く決意して自分を変える決意をするか。それを決めるのは、視聴者自身なんだよね。こんな言葉がある。

何かを達成できないのは、その「想い」が足らないからだ。

人生において、辛抱強く、十二分に「何かを想う」ことができれば、大抵は達成できるものだ。この線で行くと、運命の人を見つけられるかどうかの主導権は、自分自身にある、ということになる。作中のアニーは、結婚直前でありながら、自分の直観を信じた。そして、どたばたと不器用に思考して行動して、サムという「運命の人」をもぎ取った。途中で「自分はイカレているのか?」と半泣きになりながらよ。そうした姿を、視聴者は学ぶべきだ。ノーラ・エフロン監督の主張も、そのへんにあると思う。本作は大きな賞は獲っていないようだけど、まるちょう的には秀作だと思っています。以上、映画「めぐり逢えたら」の感想Blogでした。