前回に引き続き「ノルウェイの森/トラン・アン・ユン監督」から、#2「レイコさんの描き方の不満」と題して書いてみる。分かりやすく言うと、前回は肯定的、今回は否定的な意見。原作の軸としては、二つあると思っている。ひとつは前回述べた「愛と性の不条理」、もうひとつは「喪失と再生」ということ。もちろん一番大きな喪失は、直子の死である。原作では、そこからワタナベくんが立ち直って行く過程を、もっと綿密に描いている。そこでのキーパーソンが、他でもないレイコさんなんだよね。直子の実際のお葬式は、ひどく寂しいものだった。ワタナベくん曰く「人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」と。そこで、レイコさんがワタナベくんとふたりで、素敵なお葬式を、今は亡き直子のためにしてあげる。まず、レイコさんのリクエストですき焼きを心ゆくまで食べる。その後、レイコさんがギターを弾いて、直子へのレクイエムとするのだ。全部で51曲。ちなみに「ノルウェイの森」は、二回演奏される。そうして、交わされる次の会話。
「ねぇ、ワタナベ君、私とあれやろうよ」
「不思議ですね。僕も同じこと考えてたんです」
そう考えると、映画版はこのシーンにレイコさんのための通過儀礼としての意味のみ、残したわけね。映画版では、次のような会話になる。
「ひとつお願いごと聞いてくれる?」
「ええ、もちろん」
「私と寝て」
「本気ですか?」
「うん、そうするべきだと思う」
ただ、本作は収束をどうするか、とても悩む作品だと思う。原作はとてもぶっきらぼうな終わり方だし、トラン監督も苦労されたと思う。それにしても。やはり脚本における上記の改変は、個人的には「吉と出ていない」と思う。やはり、もっとさっぱりとしたレイコさんで、すき焼きを縁側で食べて、ギターを気持ちよく弾いて、直子への弔いをして欲しかった。そうして、もっと楽しそうに性交して欲しかった。原作では、二人はとても親密にセックスを楽しんでいる。セックスの持つ「いい意味での魔力」、セックスがこんなに素敵で、人の心を癒し、解放させる。映画版には、そうした「ポジティブな明るさ」が欠如している。とても湿っぽいシーンになっている。他は別に許せるけど、ここの改変は、個人的に許し難いのです。
結局トラン監督は「愛と性の不条理」を前面に押し出して「魂の再生」については、さらりと流してしまった。確かにレイコさんの人物描写に関しては、めちゃめちゃ難しい。それだけでひとつのストーリーが出来ちゃうくらいだし。トラン監督としては、レイコさんはできるだけ軽く、さらりと描きたかったんだろうな。それこそが「原作からの抽出」の作業に他ならない。ただ、レイコさんを軽く扱うと、必然的にワタナベくんの「再生の過程」が弱くなってしまう。あるいは苦渋の決断だったか? 真相は分からないけど、とても残念に思いました。
最後に、DVDには特典映像が付いている。メイキングというやつね。これを観て、映画製作の大変さが凄く伝わって、面白かった。様々の苦労話やキャストの素顔、いかに多くのスタッフが関わっているか、そして、カットされた多数の映像の断片。トラン監督様、いろいろ勝手なこと言いましたけど、映画を作るという作業はホント大変ですね。原作がこれだけ皆に愛されている場合は尚更です。公開されて、もうかなり経ちますが、改めてお疲れ様でした。なんか変な終わり方?(笑)
以上、二回にわたり映画版「ノルウェイの森」について、感想を記しました。
実はノルウェイの森は読んだことがないんですけど。
タナトスとエロス。
この一連の再生の作業に関する、こだわり。
このクダリと、まるちょうさんの解説読んだだけですがかなり満足。
>なおみさん
コメントありがとうございます。
確かに、本作はタナトスとエロスの対立で
捉えてもいいでしょうね。
死への願望と生への希望。
生と死の羽間で起こる、様々の事象。
僕的に言うと、エロス的な面の描写が、
映画版では足らないと思いました。
でも、二時間程度の尺で全て詰め込むのは、
どだい無理な話です。トラン監督、お疲れさまでした。