カッコーの巣の上で/ミロス・フォアマン監督(2)

前回に引き続き「カッコーの巣の上で」から。#2の「自由って何だろう?」というお題で、ひとつBlog書いてみたい。

昔学生の頃、自由にはふたつある、と習った。「~からの自由」と「~への自由」。本作で描かれるのは、主に前者である。1960年当時の精神医療をイメージ化すると、ラチェッド婦長の「鉄壁の顔貌」ということになる。理詰めで患者を閉鎖的な空間に押し込め、確固たる良心でもって患者の感情の抑揚を圧殺する。その延長線上に人権侵害もあったかもしれない。そこで支配的なパラダイムは「人間の欲望は不潔で野蛮で危険であり、強力にコントロールしなければいけない」というものだ。



作中「自主的な入院」というケースを知って、マクマーフィーが驚き呆れる場面がある。簡単に言うと、自分から檻に入るということだ。もちろんマクマーフィーは「おお神様! キチガイじゃないのか?」と評するけど、当時はそれだけ有効性の認められた療法だったわけだ。ここの描写で、本来なら「檻」と認知されてよいものが、実際は「精神の病を癒すところ」という巧妙なすり替えが生じていることに気づく。こうして、患者の自由を奪う場所が正当化される。とてつもない理論と良心と力によって。

前回も述べたけど、これは間違いなくファッショだ。巧妙に隠蔽された全体主義だ。そこでは患者の喜怒哀楽は平たく丸め込まれる。個性は否定され、規則、風紀、平穏が優先される。しかし、そこに何の面白みがある? 全くナンセンスだ。患者の精神の病を治すという大義名分のもと、入院患者の本来的な自由、あるいは「人間らしさ」を徹底的に抑えつけている。

もちろん、そうしたシステムが精神の病に有効だった人もいただろう。しかし、本作のラストを注意深く観ればわかる。ラチェッド婦長は、病棟内で性交したビリーを決して許さない。彼の一番弱いところを、錐で刺すように突いて、彼を自殺へ追い込んでしまう。ここに「檻」の目線がハッキリする。要するに、患者の病を治すことよりも病院の運営、あるいは体面なのだ。個より全体。ビリーは女性と実際に交わることで成長したはずなのに。そして、ラチェッドの首を絞めたマクマーフィーは、ロボトミーで廃人。要するに、最終的には暴力でねじ伏せる。平穏な日常に隠された悪意。とても恐ろしいことだと思う。

私はマクマーフィーが、この「檻」を突破するのだとばかり思っていた。廃人になった彼に代わって「檻」を突破するのが、チーフ。聾唖の役立たずを装って入院しているインディアンだ。個性を認めない高圧的な医療に対して、逆に自分の個性を消して「隠れて」生活している賢者チーフ。マクマーフィーだけにその真実を明かし、ふたりは親友に。ラストでマクマーフィーを窒息死させるのは、廃人となった彼を「解放する」ためだ。そして、奇跡的な力で巨大な水飲み台を持ち上げ、窓を破壊し脱走する。このラスト・シーンは、大いなる祈りが描かれていると思う。冒頭の「~からの自由」だ。もちろんそれは「~への自由」にも繋がってくる。

さて、題名となっている「One Flew Over The Cuckoo’s Nest」について少し。ぬくぬくとしたカッコーの巣で身を寄せ合って生きている者がいる一方で、敢然と絶望的な現実に立ち向かって、その「壁」を飛び越えていく者がいる。その両者の違いは何か? ずばり「勇気」だ。初めから「やれっこない」とか「無駄だ」とか諦めてしまっては、何も始まらない。愚かに見えても、まずはチャレンジすることだ。中盤でマクマーフィーが上記の水飲み台を持ち上げようとして失敗した時、他の連中に向けてこう言う。

But I tried, didn’t I? Gad-dammit!
At least I did that.
でも俺は努力はしたぜ、そうだろ? くそっ!
少なくとも、やるだけはやったんだ。

この科白に全て集約されていると思う。

最後にひとこと。人間の欲望は不潔で野蛮で危険なんだろうか? 結局それは「壁」を作った側の言い分なんだよね。欲望は人間が本来的に持っている能力を発揮させ、一瞬の閃光をもって「壁」を越えさせる。本当に新しいものを創りだす場合に、無くてはならないものだ。本作は、そうした大切な観点を我々に呈示していると思う。以上、二回にわたり「カッコーの巣の上で」の感想Blog書きました。