夫婦って何だろう?

21日に俳優の長門裕之さんが亡くなった。その前後あたりで、うちの夫婦が「ちょいモメ(注:うちではよくあることですf(^^;)」していて、怒りに燃える心で「夫婦って一体なんやねん?」と考えるうちに、これをテーマにBlog書いてみたらどうか、と思うようになった。ちなみにわが妻にも「40cmのペニス(笑)なんか書いてる暇あったら、そういうの書いてみ!」とケツを叩かれた。そういうわけで今回は「夫婦って何だろう?」というお題で、Blog書いてみたい。とても難しいテーマだけど、現在自分の中にあるものを文章化できれば、と思う。

「おしどり夫婦」という言葉がある。長門さんと南田洋子さん(2009年逝去)ご夫婦は、芸能界を代表する「おしどり夫婦」として知られていた。上記の「ちょいモメ」の最中、この言葉がどうにもこうにも引っ掛かっていた。ひょっとして長門さんと南田さんは「おしどり夫婦という虚像」を担がされて、寿命を縮めたのではないか?と。それが証拠に、南田さんが自宅前で「おしどり夫婦なんていうけど、実際は大変なのよ!」みたいに険しい顔付きで毒づいている映像が流れていたし。


考えてみると、問題のない夫婦なんて存在しないのだ。どの夫婦も上記のような「ちょいモメ」は日常茶飯事だろうし、それどころか深刻な「大モメ」を抱えている夫婦も多いだろう。彦摩呂的に言うと「モメ事の総合商社や~!」ということになる(笑)。そこでは人間関係にまつわる、あらゆるモメ事が発生し得る。「結婚は人生の墓場」というネガティブな言葉は、こうした観点から結婚生活を捉えているのね。「おしどり」という表現は「結局きれいごとに過ぎない」という結論にもなりかねない。

こういう時は、まず原点に戻ろう。なぜ男と女は結婚するのか? そりゃ、愛しあってるからだ。二人でひとつの「何か」をつくりたいからだ。結婚当初は、ふたりともそうした「明確な初心」があったはず。一番問題なのは、その「初心」が時間と共に朽ちること。どんな夫婦も最初は「おしどり」なのです。いつからか、その「まっさらのおしどり」が古びて、ぼんやりして、次第に濁り、汚れていく。まるちょうの思うに、結婚生活で一番大切なのは「常にメンテナンスを心がけること」。それでも危うくなった時は「初心に帰ること」だと思うのね。このふたつは、年月を重ねるごとに困難になる。歳をとれば肉体的、精神的に老いる、そして結婚当初の気持ちから遠くなる。人間とは「変わる生き物」であるが故に。変わるものを変えずに留まらせる努力。これはもう気の遠くなるような「闘い」ですよ! ぼんやり生活していたら、あっという間に「おしどり」は「やくざなゴロツキカラス」に成り果ててしまう。

ここ数日で考えたこと。まるちょうにとって結婚はまさに「人生の始まり」だった。男性だけでもダメ、女性だけでもダメ。両者がひとつになって、初めてなし得る何かがある。比喩的に言うなら、まるちょうは結婚前には「片眼で生きていた」。お蝶夫人♪という伴侶を得て、ようやく両目で視野をとれるようになった。これこそ、結婚の素晴らしさじゃないだろうか。欠けたものを補い、二人で成長できたら最高じゃないか。これがまるちょうの、いわゆる「初心」なのです。結婚生活は、現実的には泥沼だったり修羅場だったりするかもしれないけど、そうしたネガティブな点を力強く肯定できなければ、結婚した意味がない。「どうせ結婚なんてよ!」みたいな虚無的な観点からは、何も生まれないのだ。

最後にひとこと。長門さんと南田さんが紡いだ48年間の結婚生活は、もちろん平坦ではなかった。相当な苦悶もあっただろう。でも、まるちょうは推測する。南田さんは2009年に亡くなった時、本望だったのではないか。そして今回亡くなった長門さんは、南田さんの亡き後、すでに生きる糧はなかったのではないか。それほど、お二人の結びつきは強かったのであり、そういう観点では間違いなく「おしどり夫婦」だったと思う。メディアを通じて「おしどり夫婦」という、ある意味重い十字架を担ぎ通したお二人に、お疲れさま、天国でゆっくり休んで下さい、と申し上げたい。メディアの好奇の目のない天国で、安らかにお二人の時間を取り戻して下さい。合掌。