「やさしさ」についての考察

「村上さんのQ&A」のコーナー! 今回も「そうだ、村上さんに聞いてみよう」から、質疑応答を抜粋して考察してみる。

<質問>永遠の「男の子」である村上さんにお尋ねしたいことがあります。「男の子」のやさしさと「男」のやさしさはどう違うのでしょうか? 黙って気遣うのが男のやさしさと言われますが、うーん、じゃあ男の子は違うのだろうかと思ってしまいます。私の周りには少なくとも表面上は「男の子」が見当たらないので、もし村上さんが考える違いが何かあれば教えて下さい。

<村上さんの回答>「やさしさ」のことは僕はよくわかりません。僕は「男の子」というのは、いろんなつらいことがあってもぐっと「吞み込んで」やっていくものだと思っています。「普段はアホみたいだけど、いざというときにはなかなかやるじゃん」というのが理想ですね。つまらない言い訳ばかりしたり、調子よくひとに取り入ったり、他人の悪口ばかり言っていると、なかなかりっぱな「男の子」にはなれないような気がします。僕は思うんだけど、表面的に「やさしく」なるのって、ノウハウさえわかればけっこう簡単なんですよね。けっこうこれでころっとだまされちゃう女の子は多いですね。責任をもってやさしくなるのって、すごく大変ですけど。


<まるちょうの考察>「やさしさ」って何だろう? 改めて考えると、難しいような気がする。村上さんも「僕はよくわかりません」と、早々から「逃げの布石」を打っておられる。これは本当に分からないんじゃなくて、話し始めるとあまりにも長くなるので、核心に触れるのを避けたのだろう。

さて、まるちょうは若い頃自分の「やさしさ」を憎んでいた。自分で「やさしすぎる」と感じていた。これを女性の前で話したりすると、「何この人?」という感じで胡散臭くみられたものだ。一種の「やさしさ自慢」のように捉えられたのかもしれない。それは誤解で、本当に私は「やさしすぎる自分」に嫌気がさしていたのだ。要するに、過剰適応だったのね。アイデンティティが薄いがための、ビジョンのなさ。そうして、相手の動向に依存して行動してしまう。こうなると、もう「やさしさ」じゃないね。単なる「未熟さ」でしかない。結局「自分が本当に何がしたいか分からないまま、自分を削るばかり」ということになる。まるちょう的な「若気の至り」だったと思う。

若い頃の自分を弁護するわけじゃないけど、逆に「ギヴ・アンド・テイク」なやさしさがあるとすれば、どうだろうか? それこそ「表面的なやさしさ」なんじゃない? やさしさはできるだけ純粋で邪心のない方がよい。ただ、やさしさのベクトルが受け手のニーズに合ってないと、効果的じゃないのね。むしろ迷惑になることもあり得る。

結局相手の身になって考えられるかどうか。自分を滅して相手になりきれるか。でも本当にやさしくあろうとするためには、ちゃんと自分の意見を持って主張しなければならない。そうでなければ「相手への想い」は、結局伝わらない。そのへんが難しいところですね。「やさしさ」って、根源的にそういう矛盾を孕んでいると思う。だから真にやさしい人というのは、相当に知性のある人だろう。

「さりげないやさしさ」というのは、都会的かつ知性的だと思う。コンスタントにそうした「細やかな気遣い」ができる人は、人気が出るだろうなぁ。そうした人は、いい意味で「大人」であり、中庸というものをわきまえている。でも「大人」が行き過ぎると、いわゆるビジネスライクになってしまうので、注意が必要だけど。

「ノルウェイの森」のラストで、ワタナベくんとレイコさんが性交する場面。まるちょうは、この場面を「レイコさんのやさしさ」と理解している。今は亡き直子の呪縛を解いてやるための通過儀礼としての性交だった。でも通過儀礼と言ったって、現実に体を合わせるわけだからね。レイコさんは、それ相応の犠牲を払ったわけだ。でもレイコさんは何も言わず、旭川へ旅立つ。こうして「その人に一番大事なものを与えて、その場をすぐに立ち去る」という行為は、とてもスマートで格好いい。究極のやさしさだと思うんだけど。

やさしさは孤独に根ざしている。多弁や過干渉、押しつけ等からは、やさしさは発生しない。質問にある「男」あるいは「男の子」の究極の目標は「孤独に耐えうる人間になること」じゃないだろうか。そうであって、初めて他人にやさしさを与えられる。「男」は渋くなり「男の子」は凛々しくなる。上記のレイコさんも「人間の孤独」を知り尽くした人だった。孤独を無意味な喧噪でごまかしてはいけない。村上さんのおっしゃる通り「ぐっと吞み込んで」、孤独を耐えること。「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」・・けだし名言である。タフになりたい。そう改めて思ったまるちょうなのでした。

以上「村上さんのQ&A」のコーナーでした。