アマデウス/ミロス・フォアマン監督

「アマデウス」(ミロス・フォアマン監督)を観た。1984年にアカデミー賞を8部門制覇している名作。35歳で夭逝した天才音楽家、モーツァルトの謎に包まれた生涯を描いている。モーツァルトを「天才」と呼ぶのは、異論なかろう。そこへ絡んでくるのが「凡庸」としてのサリエリ、その人である。モーツァルトの才能を妬み殺害した、と語る年老いたサリエリの回想というスタイルをとっている。この「天才と凡庸の対立」が、本作を構成している主な軸だろう。ただ、映画化という過程で、一種のステレオタイプに陥っている感は拭えない。

<天才→人格は最低だが類い稀なる才能><凡庸→高潔だが才能がない>

おそらく両者とも、実際には、こんな極端ではなかったと思う。そうしたことを踏まえつつ「天才と凡庸」という対比について、敢えて考察してみたい。確かに人生を考えるとき、こうした軸で物事を考えるのは、悪くないことだと思うし。

本作で大事なモチーフは、サリエリのモーツァルトに対する嫉妬心である。でも、まるちょうが思うに、モーツァルトってそんなに幸せだったのかなぁ?と。確かに多数の音楽作品を残して、歴史にその名を刻み込んだ。それは認める。しかし、35年しか生きられなかったんだよ。短命というのは、ある面で疑いなく「不幸」と言ってよい。それに対して、サリエリは75歳まで生きた。Wikiによると、宮廷楽長まで務めあげ、高い名声を博したとある。オペラ作品も、もちろんモーツァルトほどじゃないけど、ちゃんと残している。凡庸なサリエリは不幸で、天才であるモーツァルトの足下にも及ばなかった・・そういう紋切り型に、私は異議を唱えたいのだ。

まるちょうは思う。サリエリの人生もまたよきかな、と。そこそこの才能でこつこつと努力し、天命を全うする。確かに歴史に名は残らないが、「凡庸」と卑下する必要は一切ないと思う。モーツァルトの波乱の生涯に比べたら、サリエリのほうがずっと幸せだろう。

そう、「幸福かどうか」という点においては、モーツァルトは恵まれなかったと思う。晩年は借金もあったようだし、かなり乱れた生活だったようだ。700以上もの作品を書いて、35歳で逝った彼は、それで満足だっただろうか? まるちょうはずばり、その濃縮された人生の中に「ある種の地獄」を感じずにいられない。並外れた音楽的才能によって、引きずられ、バラバラになり、後ろを振り返ることも許されなかった。気がついたら墓の中にいた。こんな見方は、おかしいだろうか? 作曲家モーツァルトではなく「一個の人間としてのモーツァルト」を考えたとき、30代で苦しむ彼を、誰かが救えなかったのか?と思うわけ。

天才を一種の「病」と捉えるのはどうだろうか? 「チームバチスタの栄光」で奇人白鳥が言い放つ「精神的奇形」という言葉。通俗的には差別用語になるかもしれないが、敢えて学術的に考えてほしい。天才とは、つまるところ「極限の偏りを持った精神状態=奇形」と表現できないか? 健全な人格を象徴して使われる「全人的な成長」と真逆の代物である。天才とは、ある意味そうした「不幸」を背負って生まれてくる存在なのだ。

天才:限りなく一本のベクトルに近い精神状態
全人的な人格:限りなく円に近い、バランスの取れた精神状態

図形的に理解するには、上記のような考え方でよいだろう。したがって、こう言える。天才は30歳前後で行き詰まり、それまでの生き方の転機を迎えざるを得ないと。ひとつの方向に疾走するだけでは、人生はあまりも長過ぎるのだ。

さて、ここで話を現在に変えてみる。宇多田ヒカル(27)という一個の才能がある。彼女を「天才」と呼ぶかどうかは後年の人々に任せるとして、最近、彼女は「活動休止宣言」をした。休止理由について「アーティスト活動中心の生き方をし始めた15才から、成長の止まっている部分が私の中にあります。それは、人として、とても大事な部分です」と説明。アーティストとしてではなく「人間活動」に専念したいとのこと。

この「活動休止」の本質は、前述のようなことになると思う。宇多田さんは、自分の中の「歪み」を重荷に感じ始めたのだ。自分固有のベクトルに乗って全力疾走できる間はよい。しかし、それではいつか息切れしてしまう。モーツァルトのように短命の生涯とならないためには、「中庸」というパラダイムを導入しなければならない。それをちゃんと決断できた彼女は、偉い。「太く短い人生」を格好いいと言う人は結構いるけど、中庸を保って長生きする、人生を味わい尽くす生き方もまた素敵なものだと思う。

さて、まるちょうが「アマデウス」を観て一番言いたいこと。天才とは「一種の病」である。通俗的な「『選民の恍惚』に浸る神の子が、天上から世界を見下ろす」というイメージは、それこそ凡庸な虚像だと思う。本人は自分の才能が巻き起こす「運命の渦」に青色吐息なのだ。周囲の人間は、人知れず悩む彼に気づくべきだ。彼が「奇形」として一生を終えるのではなく、「全人的」に成長して幸福な人生を送るために。一個の人間として、彼はその権利を持っているのだから。この映画を観て、そんなことを考えました。こんな風に考える俺って、おかしいかな?(笑)