なれの果て・・「人間交差点」より

漫画でBlogのコーナー! 今回は人間交差点(矢島正雄作 弘兼憲史画)より、「なれの果て」という短編をネタに語ってみたいと思う。まずはあらすじから。

三崎は外務省キャリア。東南アジア某国の大使館に出向して、あと半年で五年になる。あと半年でようやくこの憂鬱な出向は終り、本国に帰れば課長の椅子が待っている。そんなとき、学生時代の友人だった根岸が、コーディネーターとして大使館に出入りしていることを知る。乗っている車はオンボロ。彼は学生時代から「今」しか見ていない奴だった。それに対して、三崎は常に「将来」を考えて行動するタイプ。彼は根岸を軽蔑して、自分の勝利を感じる。

ある日、日本のジャーナリストが三崎を訪ねてくる。経済援助が本当に民衆のレベルまで浸透していないという問題点を各地で取材している。そして、三崎に「独自の判断で行った援助があったら見せてほしい」とリクエストする。三崎は「あと半年だというのに、何故こんな奴が飛びこんできたのだ・・」と心の中で嘆く。大使館の事務員いわく「根岸さんに頼めば大丈夫ですよ。何とかマスコミを納得させるだけの形は整えてくれます」と。「この国で本当に困っている人も、本当に頑張っている人も、彼はよく知っています」

実際、根岸はたった数百万円の資金で、見せかけではなく、誰が見ても納得のできる緊急援助を行ってみせた。件のジャーナリストはお礼まで言って納得して帰る。三崎は根岸に「お礼にメシでもどうだ?」と声をかけるが、根岸いわく「それじゃ、俺の家に来いよ。メシならうちで食おう。お前を見たら、女房も喜ぶよ」と。その女房というのが、学生時代にはもともと三崎の彼女だった女性。それを授業中に根岸が誘って奪ったのだ。あれ以来、根岸はキャンパスにも姿を見せなくなり「堕ちていった」。奴は、重石を抱いて川底へ・・

しかし根岸の家では、その女が学生時代の華奢な雰囲気とはがらりと変わった、たくましい主婦となって、ちゃきちゃきと料理していた。おんぼろの家。べったりと染み付いた生活感。しかし、根岸夫婦はごく自然に和やかに笑い合っていた。想像していた通りの「なれの果て」の二人の姿だった・・ しかし、二人は心から笑っていた。三崎は少なからずショックを受ける。自分の生き方は、本当にこれでよいのだろうか?

そして最後の別れの挨拶。根岸いわく「おまえ、生きてて楽しいか? 人生は面白いんだぞ。とてつもなく楽しいんだ。心からそう思ったことはあるか?」と。帰りのハイヤーの中で、三崎は根岸の言葉を反芻する。「人生は面白いか・・」いつもは外の景色を見るのも嫌がっていた三崎だが、ふと外に出て歩きたくなる。そして、東南アジア独特の市場のあたりを歩く三崎。心なしか、彼の表情が穏やかになった。

この短編は、ひとつの問題提起をしている。「今を存分に楽しむ」のがいいのか、「明日を心配して生きる」のがいいのか。本作では「今を存分に楽しむ」生き方を、どちらかというと是としている。この「人間交差点」シリーズの傾向として、前者が「無惨に堕ちていく」パターンの物語がわりと多い。いわゆる「アリとキリギリス」の寓話に象徴される命題・・「明日の心配をして、こつこつ働く者が結局勝利する」。それはそれで真理だ。なんの異存もない。ある意味常識化したこの「命題」にメスを入れたのが、本作である。

「明日の心配をする」のは間違っていない。しかし、心配ばかりして「今を楽しめない」あるいは「楽しいものがあるのに見過ごしてしまう」というのは、本末転倒だと思う。明日の心配ばかりするが故に生じる「視野狭窄」。三崎は東南アジア出向を「我慢の五年間」と捉えていたはず。だから、その某国の風景にも関心がなかった。課長になるまでの、単なる通過点と。

旅に例えると「目的地について、やることやって、帰宅して終り」という態度に似ている。そうじゃないんだね。旅というのは、目的地に着くまでの道程に起こった、様々の瑣事を味わい楽しむということじゃないだろうか? 享楽主義という言葉は、あまりよい印象を与えないかもしれないけど、真の享楽主義者は、そうした「小さなこと、何でもないこと」をたっぷりと味わえる人のことじゃないだろうか?

キリギリスの根岸がこう言っている。

「俺はいつもたった今のことしか考えられない馬鹿野郎で、おまえは将来しか考えられない利口者だ。だけど最後の帳尻は同じだ。お互いにいつかはくたばる。同じ”なれの果て”になるってわけだ」

これは真理だ! みないつかはくたばるんだ。明日ばかり考えるアリは、明日になる前に死んでしまったら、どうするんだろう? 楽しむ暇がないじゃないか。

結論的に言うと、これは全く程度問題である。中庸が大切です。今を楽しむばかりでは、本当に「堕ちていって」しまうし、明日ばかり心配するようでは、いつのまにか「楽しみ方が解らない」人になってしまう。人生とは、享楽主義と禁欲主義の間で揺れるブランコなのです。それが本当に実感として身に付いている人は「生活を楽しめる人」なんだと思う。

ただ「みんな最後にはくたばる」というのは真理である。賢い者も愚かな者も、今を大事にする人も、明日を心配する人も、みな最後は死ぬのだ。その真理を提示できた根岸は、三崎より賢いということになるだろう。人生というものを考えた時に、ある種の「諦念」が必要だと思う。自分が無限でないという実感ね。本当の「生活術」というのは、その諦念から生まれるんじゃないかって、最近少し思っています。

以上、漫画でBlogのコーナーでした。