医師と患者 誤解とけた

新聞記事をネタに語ってみたい。昨年10月18日の読売新聞「読者と記者の日曜便」から。お題としては「医師と患者 誤解とけた」。まるちょうは日々外来診療をする中で、患者さんとのコミュニケーションは、それなりのこだわりを持って臨んでいる。この記事はまさにその「コミュニケーション」がテーマ。以下、記事の内容を記す。

以前に医師から「(外来で)待つのが嫌なら、もうあなたは診ない」と言われて憤っていた理恵さん(仮名 38歳)から、再びお便りがあった。結局もう一度、同じ先生の診療を受けたそうですが、いかがでしたか。

「病院側からは『うちには非はない。文句があるなら訴訟でも起こせばいい』とまで言われていたのですが、今回行ったところ、担当医が優しくなっていました。診察後『あのときの自分は、確かに言い過ぎていました。取り次ぎ(予約したのに待ち時間が長すぎるという理恵さんの意見)を聞き、感情的になり、高圧的に傷つけてしまいました。医師として患者に甘えていたところがあり、恥ずかしい限りです』と謝罪されたのです。私はそれ以上言うことはなく、受け入れました」



こうした事例は、外来診療の中では日常茶飯事である。まず第一に、医師は神様ではない。カッとなることだってある。この事例で注目したいのは、医師が素直に謝っていること。一度熱くなって決裂しても、日を改めての再診で理解し合えれば、それに越したことはないと思う。ほとんどの患者さんは、それで分かっていただけるはず。

まるちょう自身は、外来では「温厚な医師」でいちおう通っている。しかし、一度だけ我を忘れて激昂したことがある。あれは今から8年くらい前だろうか。受診者のとても多い日で、ちょっとイライラしていたこともあった。こうした状況になると、医療側としては「できるだけ円滑にカルテをまわしたい」という意識が強く働く。これはもちろん「後の患者さんを待たせない」という思慮による。もちろん、机に置いてある多量のカルテを見て「まだこんなにあるのか・・」という疲労、いら立ちも当然ある。ただ、そういう社会性のないむき出しの感情というのは、患者さんに見せてはいけないのは、もちろんだけど。

話を戻して、多量のカルテが並んでいる11時頃だっただろうか。Uさんという高齢の男性が診察室に入ってきた。この方は、いつもコミュニケーションが今ひとつうまく行かない人で、何を希望されているのかよく分からないところがある。身なりも不潔で、尿臭がすることもしばしば。いつも診療後に消臭剤を振りまいていた記憶がある。そのUさんが、いつもの通り、何を一番診てほしいのか今ひとつ把握できず、もやもやする中で、とりあえずの薬だけ出して、診療をいったん終わろうとしていた。Uさんは、服を着て診察室から出て行こうとするが、途中で止まってしまう。じっと観察していたが、歩き方が明らかに意図的に遅くなっている。なかなか診察室を出て行こうとしない。

ここで切れてしまった。私の目には「明らかな診療遅延行為=嫌がらせ」と見えたのだ。我を忘れて大声で「はよ出て行け!他の患者さんが待ってはんにや!はよ出て行け!」と怒鳴っていた。Uさんはこちらを振り向こうともせず、ゆっくりと出て行かれた。

その後、Uさんが受診されたときは「あの時は怒鳴って悪かった」という姿勢で診療に臨んだ。でもUさんは特に気にするでもなく、相変わらず意思疎通しにくい。今思うと、たぶん発達障害を持たれていた可能性があると思う。数年後、診療所の移転とともに、Uさんは受診することはなくなった。だから、新聞記事のような「仲直り」というのもなかったわけだ。パッとしない話だけど、現実とはそんなものかもしれない。

何を言わんとしているのか、自分でも整理がついていない。ただ、自分としては、あの自制心を失って怒鳴った時の「後味の悪さ」「直後にわき起こる、やり場のない疲労感」「それでもなお診療を続けなければならないしんどさ」を思い出さずにはいられない。患者さんに怒鳴ったのは、後にも先にもあれっきりである。

外来診療という仕事は、根本的に人間が好きでないとできない。ある意味「人間学の宝庫」とも言えるかもしれない。だから「いろんな人がいて困る」ではなく「いろんな人に出会えるから楽しい」という発想転換ができたら、一番理想的なんだろうと思う。なかなか難しいけど、そんな感じで日々頑張っています。新聞記事は他にも余談があるんだけど、長くなったのでこれでいったん終りにします。