15日にOSバージョンバップ+Windows 7を入れる作業あり、バタバタしていました。こういうのは嫌いではないんだけど、どうしてもルーチン作業がおろそかになってしまう。Blogを再開するのは、ずっと待ち続けていたことだったけど、OSをいじるのもずっと我慢していたこと。やりたいこと満載の四月です(笑)。それはそれで困ったもんだ。
OSいじりというのは、やりだすときりがない。「自分の快適な環境」を考え始めると、本当に終わりがない。時間がいくらっても足りないのだ。そうして前回Blogアップの13日から、あっという間に一週間経ってしまった。OSいじりというのは、一種の麻薬である。すぐに中毒になってしまう。32歳の頃、Macとの邂逅を懐かしく思い出す。あの頃はPCの麻薬性にどっぷりと浸かり、まさに「Addicted to PC」な日々だった。ある意味、自由な日々。善悪は別としてね。OSをいじると、そうした「自分の若かりし頃」を、ふと思い出してしまう。
さて、本題に入る。今回は「音楽コラム」として、竹内まりやの楽曲について語ってみたい。彼女の楽曲には、時に「哲学」を感じてしまう。単なる流行歌にはない「深さ」というか。思わず立ち止まって聴いてしまう曲がわりとあります。ふたつ取り上げる。
ひとつめは「みんなひとり」
人間は、結局みなひとりである。当たり前の命題だ。まるちょうは楽観主義の人間なので、こうした微妙な感覚を持つようになったのは、普通の人よりも遅いと思う。精神的に幼かったこともある。親の保護の下に長くいたこともある。根本的に「依存」が強いこともある。
「みんなひとりぼっち」という感覚は、大人への第一歩だ。これを出立点として、あらゆる広い視点が獲得される。「自分がひとりぼっち」だからこそ、他人からの小さなぬくもりやふとした優しさに感謝できる。自分の愛する人の朗らかな笑顔を、深い共感をもって眺めることができる。要するに、心が豊かになるのね。古びた標語「人類はみな兄弟」は、それはそれで崇高な理想を内包しているけど、ここを出立とすると、大きな間違いが起こる。一人一人は違うのである。家族であってさえ、違うのである。しかし「あいつと俺は違う」という前提から、相手への気遣いが生まれる。そこから真の優しさが生まれるのだ。「みんなひとりぼっち」という観点は、一見寂しげだけど実は潔くて美しい。竹内まりやは、こうした微妙な気持ちの揺れを上手にうたにしていると思う。好きなうたです。
ふたつめは「チャンスの前髪」
このタイトル、少し気になりませんか? なぜ前髪がチャンスなんだろう? 女の子が前髪をなんとかすることで、運気とかそういうのが変わることを意味しているのかな? 初めはそんな感じで、軽く流していた。でもどうしても気になってググってみたら、ちゃんとした背景があることが判明した。
「時」は古来、前額には髪の毛があるが頭部は禿げている老いた神(女神の場合もある)に擬人化されてきた。そこで、時(あるいはチャンス)が前方より疾走して近づいてくるとき、油断なく待ち構えていてその前髪をむんずと掴まえなければ、後頭部に手がかりの毛髪が無いので、通り過ぎた後では捉えそこなってしまう。『好機が過ぎてから嘆いても遅すぎる』ということになるのである。
チャンスを待ち構えて、いざ到来となるとそれを逃さず、むんずと掴まえる。これって、まるちょう的には「女性的な姿勢」だと思うんだけど、どうよ? 純粋に男性的な人は、そうした「敏感なアンテナ」は持ち合わせていないと思う。中国の古い思想で「無為自然」というのがある。「チャンスの前髪」と対極的で男性的な立場。まるちょう的には、どちらもありだと思うんだけどね。どちらが正しいということはないと思う。アンテナを張りすぎてもノイズを拾いすぎるし、鈍感になりすぎても好機をみすみす逃してしまう。ここのバランスが難しいね。でもひとこと言わしてもらうと、鈍感である幸福は確かにあるよ。「知らぬが仏」というやつね。情報に敏感である地獄もまた、存在する。第一、知りすぎてたら気ぜわしいよ。
見つけたチャンスを逃さずつかむこと 後悔だけは残したくないの
石橋をたたかず渡ってしまうのも 時には明るい未来につながるはずね
助け合えばほら怖いもの知らずの 自分になれる勇気が出てきた
以上、長くなりましたが竹内まりやの楽曲をネタに語ってみました。